ゼカリヤ1:1-6 ゼカリヤ1 『わたしに帰れ』 2022/03/20 けんたろ牧師

ゼカリヤ 1:1-6
1:1 ダレイオスの第二年、第八の月に、イドの子ベレクヤの子、預言者ゼカリヤに、次のような【主】のことばがあった。
1:2 「【主】はあなたがたの先祖に激しく怒った。
1:3 あなたは人々に言え。『万軍の【主】はこう言われる。わたしに帰れ。──万軍の【主】のことば──そうすれば、わたしもあなたがたに帰る。──万軍の【主】は言われる。』
1:4 あなたがたの先祖のようであってはならない。先の預言者たちは彼らに叫んで言った。『万軍の【主】はこう言われる。あなたがたは悪の道と悪しきわざから立ち返れ。』しかし、彼らはわたしに聞かず、わたしに耳を傾けもしなかった。──【主】のことば──
1:5 あなたがたの先祖たちは、今どこにいるのか。預言者たちは永遠に生きるだろうか。
1:6 しかし、わたしのしもべである預言者たちにわたしが命じた、わたしのことばと掟は、あなたがたの先祖に追い迫ったではないか。それで彼らは立ち返って言ったのだ。『万軍の【主】は、私たちの生き方と行いに応じて、私たちにしようと考えたことをそのとおりになさった』と。」

ゼカリヤ書は小預言書の中では最も長く、私たちにとっても重要な預言の言葉が描かれている。
さらに、「黙示」という私たちには分かりにくいスタイルでの預言が出てくるので、じっくりとゼカリヤ書に取り組んでいきたい。
今回はゼカリヤ書の導入部分だけを取り上げることにする。

① ゼカリヤ書の背景
ゼカリヤはハガイと同じ時代に活躍した預言者であり、バビロン捕囚から帰還したユダヤ人たちを励ました預言者だった。
このふたりの預言者たちが、ダビデ王家の後継者であるゼルバベルと、大祭司ヨシュアという二人を助けたことがエズラ記の中に記されている。

エズラ 5:1 さて、預言者ハガイとイドの子ゼカリヤという二人の預言者は、ユダとエルサレムにいるユダヤ人に対して、自分たちの上におられるイスラエルの神の御名によって預言した。
5:2 そこでシェアルティエルの子ゼルバベルと、エホツァダクの子ヨシュアは立ち上がり、エルサレムにある神の宮を建て始めた。神の預言者たちが一緒にいて、彼らを助けた。

この頃、エルサレムの人々にとって大きな希望となっていたのは、捕囚前に預言者たちが預言していたイスラエルの復活の預言だった。
これまでも小預言書の中で学んできたが、イスラエルはその罪のゆえに滅ぼされることが伝えられていた。
しかしそれと同時に、神さまの恵みによってイスラエルは復活することが伝えられていたのである。
エレミヤ書には、イスラエルが捕囚から70年後に復活することが記されていた。

エレミヤ 29:10 まことに、【主】はこう言われる。『バビロンに七十年が満ちるころ、わたしはあなたがたを顧み、あなたがたにいつくしみの約束を果たして、あなたがたをこの場所に帰らせる。

そして約束通り、捕囚から70年後、ユダヤ人たちはバビロンの地から解放され、エルサレムに帰還したのである。
しかし預言書には、復活した後のイスラエルが素晴らしい神の国として描かれている。

アモス 9:14 わたしは、わたしの民イスラエルを回復させる。彼らは荒れた町々を建て直して住み、ぶどう畑を作って、そのぶどう酒を飲み、果樹園を作って、その実を食べる。
9:15 わたしは、彼らを彼らの地に植える。彼らは、わたしが与えたその土地から、もう引き抜かれることはない。──あなたの神、【主】は言われる。」

しかし、約束の時が来たのに相変わらず貧困と迫害の中にあって、生活が一向によくならないことにユダヤ人たちはいら立っていた。
ユダヤ人たちは励ましを必要としていたのである。

② わたしに帰れ
冒頭でゼカリヤは、ユダヤの状況が一向に変わらないのは、かつてユダを裁きに向かわせた不信仰の時代から、今のユダヤ人たちが何も変わっていないからだということを示している。

ゼカリヤ 1:2 「【主】はあなたがたの先祖に激しく怒った。
1:3 あなたは人々に言え。『万軍の【主】はこう言われる。わたしに帰れ。──万軍の【主】のことば──そうすれば、わたしもあなたがたに帰る。──万軍の【主】は言われる。』
1:4 あなたがたの先祖のようであってはならない。先の預言者たちは彼らに叫んで言った。『万軍の【主】はこう言われる。あなたがたは悪の道と悪しきわざから立ち返れ。』しかし、彼らはわたしに聞かず、わたしに耳を傾けもしなかった。──【主】のことば──

ゼカリヤの主張はシンプル。
これまで預言されていたようにユダヤが回復していかないのは、私たちが裁きを受ける前のイスラエルと何も変わっていないからだ。
先祖のようにならず、悔い改めて神さまに立ち返ることこそ、ユダヤに回復をもたらすということだった。

ゼカリヤたちのその言葉を受けて、ユダヤは悔い改めて神さまに立ち返ったように見えた。
エズラ記、ネヘミヤ記ではゼカリヤとハガイ、そしてゼルバベルとヨシュアの活躍によって、ユダヤ人たちの信仰が回復していく姿が描かれている。

ところがこの改革は、必ずしも良い結果をもたらしたわけではなかったのだが、それはゼカリヤ書の後半で話されることである。


私たちは、今日の箇所から何を学ぶことができるだろうか?
それは、預言の成就は必ずしも自動的に起こるわけではないということである。
神さまには計画があり、神さまの計画は必ず成就すると聖書には書かれている。
しかし、私たちがそれを受け取ろうとしないなら、その計画はいつまでも実現しないことになってしまう。
「人々が悔い改めて、そこに神の国が興る」と計画されていても、当のユダヤ人たちが悔い改めて神さまに立ち返らない限り、神を王とする神の国は始まらないというわけだ。

創世記の時から約束されていた救いにも同じことが言える。
「救いは無条件」のはずではないのか? 確かにそうだ。
しかし、郵便が確かに送られても、受け取る人がいなければ意味がないのと同じで、私たちが受け取らない限り、無条件に約束されたその救いを受け取ることはできない。

「無条件に与えられる救い」とは何なのか?
聖書で約束されているのは、創造主である神さまとの関係が回復し、神さまとの永遠のときを生きるということに他ならない。
それこそ、イエスさまが繰り返し話していた「神の国」「天の御国」である。
私たちは、今すぐ神の国に入り、神の国で生きることができるのだ。