ゼカリヤ1:7-17 ゼカリヤ2『黙示を読み解くコツ』 2022/03/27 けんたろ牧師
ゼカリヤ 1:7-17
1:7 ダレイオスの第二年、シェバテの月である第十一の月の二十四日に、イドの子ベレクヤの子、預言者ゼカリヤに、次のような【主】のことばがあった。
1:8 夜、私が見ると、なんと、一人の人が赤い馬に乗っていた。その人は、谷底にあるミルトスの木の間に立っていた。そのうしろには、赤毛や栗毛や白い馬がいた。
1:9 私は「主よ、これらの馬は何ですか」と尋ねた。すると、私と話していた御使いが「これらが何なのか、あなたに示そう」と言った。
1:10 すると、ミルトスの木の間に立っていた人が答えた。「これらは、地を行き巡るために【主】が遣わされた者たちだ。」
1:11 すると彼らは、ミルトスの木の間に立っている【主】の使いに答えた。「私たちは地を行き巡りましたが、まさに全地は安らかで穏やかでした。」
1:12 それに答えて【主】の使いは言った。「万軍の【主】よ。いつまで、あなたはエルサレムとユダの町々に、あわれみを施されないのですか。あなたが憤られて七十年になります。」
1:13 すると【主】は、私と話していた御使いに、恵みのことば、慰めのことばで答えられた。
1:14 私と話していた御使いは私に言った。「叫んで言え。『万軍の【主】はこう言われる。わたしは、エルサレムとシオンを、ねたむほど激しく愛した。
1:15 しかし、わたしは大いに怒る。安逸を貪っている国々に対して。わたしが少ししか怒らないでいると、彼らは欲するままに悪事を行った。』
1:16 それゆえ、【主】はこう言われる。『わたしは、あわれみをもってエルサレムに帰る。そこにわたしの宮が建て直される。──万軍の【主】のことば──測り縄がエルサレムの上に張られる。』
1:17 もう一度叫んで言え。『万軍の【主】はこう言われる。わたしの町々には、再び良いものが満ちあふれ、【主】は再びシオンを慰め、再びエルサレムを選ぶ。』」
聖書の中で幻を通して神のことばを伝える表現方法を、黙示文学という。
ゼカリヤ書の1章7節から、6章の終わりまでが正にそのような表現方法で書かれている部分であり、私たちには理解することが少し難しい部分でもある。
黙示文学の中でもっとも有名なのは、聖書の最後の書である黙示録だろう。
黙示文学を読んでいると、何か大切な秘密が巧みに隠されているように思えるかもしれない。
しかし、「黙示」の本来の意味はむしろ逆で、「隠されているものを明らかにする」という意味の言葉である。
では、私たちからは何が隠されていて、何を明らかにするというのか?
それは、霊の世界である。
日本語で「霊」というと、人間の魂や幽霊のようなものを表わすことが多いので、少し誤解を与えてしまうかもしれない。
「霊の世界」というと、死後に行く「霊界」のことだと思う方もいるかもしれないが、そうではない。
聖書の世界観では、私たちが表面的に見えている物質の世界の裏面に、目に見えない霊の世界があることが示唆されている。
そして、霊の世界で起こっていることが実質的な出来事であり、私たちに見えている現実というものは、むしろその裏面でしかないという考え方がある。
こういう説明の仕方をした方が興味が湧く人もいると思うが、なんだかスピリチャルで怪しい感じもするので、少し言い方を変えてみよう。
例えばビデオゲームをするときに、私たちに見えている画面がある背後では、たくさんのプログラムによっていろいろな指示がされていることはご存じだろう。
このプログラムのように、私たちに見えている世界の裏側を描写しているのが黙示文学で表現されていることなのだ。
これを理解することで、私たちは神さまの視点を理解し、神さまの計画を読み取ることができる。
そして場合によっては、これから起こる未来の出来事までも読み取ることができるのだ。
黙示は霊の世界の出来事であるため、幻のかたちで表現されている。
それは私たちが見る夢のようなものなので、捉えどころがなく、荒唐無稽な部分もあるが、そこに表されているものがあり、コツさえつかめれば私たちにもある程度理解できるものである。
例えばピカソが描いた抽象画はパッと見理解し難いかもしれないが、「ゲルニカ」というタイトルが何を表わしているか、そこに描かれている牛や馬が何を表わしているか、ピカソの描いた絵の中で、灯りを灯す女性が何を意味して描かれていたかを知っていれば、絵の意味をある程度読み取ることができるのだ。
今回は、ゼカリヤ書の1章7節からの幻に焦点を当てながら、黙示の読み方、理解をするコツについて話してみようと思う。
黙示を理解することは私たちにとっても大切な事であり、コツさえつかめれば、誰でもある程度理解できるようになるものだからである。
黙示を理解するために大切な第一のことは、細かい描写に捕らわれず、全体像をぼんやりと理解するということ。
これは聖書全体の読み方に通じることだが、細かい枝葉に囚われすぎると多様な解釈ができるため、人によって話が変わってしまうから。
プロテスタント教会の歴史はまさにこれの繰り返しで、解釈の違いによって驚くほどの分裂を繰り返してきた。
大切なのは大枠の意味であって、何とでも言えるような枝葉の部分ではない。
そんなところで争って分裂するのはバカバカしいことではないか。
第二のコツは、記号や象徴を読み取るということ。
今回の聖書箇所で言うなら、まず、「四」というのは東西南北の四方向のことで、全方位――つまり世界中全ての場所を表わしている。
次に、「馬」というモチーフは戦いや戦争を表わしている。
「ひとりの人」。という言葉は、多くの場合救い主を表わしている。
ここには70という数字で出てくるが、7や3や12という数字は「完全数」と言って、神さまを表わす数字として出てくることが多い。
そして、今回の箇所の後半に登場する「計り縄」。
これは、神さまがその対象を品定めして、評価を下す時に出てくる言葉である。
今回の聖書箇所だけでもこれだけの手がかりが出てくる。
実際の解き明かしは次回話すつもりだが、このヒントによって、皆さんだけでもある程度理解できるのではないだろうか?
第三に、聖書の中ですでに記されていることを手掛かりにするということである。
今回の箇所ではあまり関係がないかもしれないが、幻の中で聖書の他の箇所に記されていたことがモチーフとされていることは少なくない。
例えば、水を通ることが紅海やヨルダン川を渡ったイスラエルを表わしていたり、蛇や竜がエヴァを誘惑した悪魔を表わしている。
また、先の「ひとりの人」のように、「小羊」「若枝」「人の子」などの表現が救い主を表わす言葉として繰り返し出てくる。
第四に、知識や理屈より、聖霊の導きに従って読んだ方が良い。
これもまた「霊」に関することなのでわかりにくい部分の話しだが、霊のことについて書かれている黙示を読み解くには、聖霊の導きが不可欠である。
神さまの声に耳を澄ませる中で、突然ひらめきが与えられて聖書の言葉を理解することも少なくない。
黙示という特別な表現方法にも同じことが言える。
第五に、全てを理解しようとはしない。
全てにはふさわしい時があり、見えなかったものが見えるのにも神さまのタイミングというものがある。
世界の終わりがいつ訪れるのかはまだわからないのであり、難解な黙示もまた、解き明かされるのに必要な時というものもある。
それくらいのつもりでわかる部分だけ読んでいくだけでも、私たちには多くのことが明らかにされていくことだと思う。
来週までの1週間、ぜひそれぞれでゼカリヤ書1章7節から6章の最後までを読んでみて欲しい。
そこで気づいたことをメモしておいて、来週のメッセージを聞くと、より多くのことを得られるはず。
聖霊が、ひとりひとりに導きを与えて下さいますよう、心から祈ります。