ゼカリヤ1:7-17 ゼカリヤ3『9つの幻が表わすこと』 2022/04/03 けんたろ牧師

ゼカリヤ 1:7-17
1:7 ダレイオスの第二年、シェバテの月である第十一の月の二十四日に、イドの子ベレクヤの子、預言者ゼカリヤに、次のような【主】のことばがあった。
1:8 夜、私が見ると、なんと、一人の人が赤い馬に乗っていた。その人は、谷底にあるミルトスの木の間に立っていた。そのうしろには、赤毛や栗毛や白い馬がいた。
1:9 私は「主よ、これらの馬は何ですか」と尋ねた。すると、私と話していた御使いが「これらが何なのか、あなたに示そう」と言った。
1:10 すると、ミルトスの木の間に立っていた人が答えた。「これらは、地を行き巡るために【主】が遣わされた者たちだ。」
1:11 すると彼らは、ミルトスの木の間に立っている【主】の使いに答えた。「私たちは地を行き巡りましたが、まさに全地は安らかで穏やかでした。」
1:12 それに答えて【主】の使いは言った。「万軍の【主】よ。いつまで、あなたはエルサレムとユダの町々に、あわれみを施されないのですか。あなたが憤られて七十年になります。」
1:13 すると【主】は、私と話していた御使いに、恵みのことば、慰めのことばで答えられた。
1:14 私と話していた御使いは私に言った。「叫んで言え。『万軍の【主】はこう言われる。わたしは、エルサレムとシオンを、ねたむほど激しく愛した。
1:15 しかし、わたしは大いに怒る。安逸を貪っている国々に対して。わたしが少ししか怒らないでいると、彼らは欲するままに悪事を行った。』
1:16 それゆえ、【主】はこう言われる。『わたしは、あわれみをもってエルサレムに帰る。そこにわたしの宮が建て直される。──万軍の【主】のことば──測り縄がエルサレムの上に張られる。』
1:17 もう一度叫んで言え。『万軍の【主】はこう言われる。わたしの町々には、再び良いものが満ちあふれ、【主】は再びシオンを慰め、再びエルサレムを選ぶ。』」

ゼカリヤ書1:7から6:15までは黙示文学と呼ばれる、神さまから受けた幻が描写されている個所である。
長い箇所となるが、この幻を一気に話した方が良いのでざっくりと話していく。

タイトル通り、ここには9つの幻が描写されている。
9つの幻はシンメトリーの構造となっていて、第1の幻と第8の幻が、第2の幻と第7の幻が、第3の幻と第6の幻が、第4のも幻と第5の幻、そして第9の幻が繋がりを持っている。

① 第1(ゼカリヤ1:7-17)と第8(ゼカリヤ6:1-8)の幻

二つの幻にはどちらも4頭の馬が登場する。
前回も話したが、四は4方位を表わすので世界中、馬や6章の戦車は戦争や戦いを表わしている。
これは神さまが御使いを送って世界中を見張らせ、そこで起こる戦いをコントロールしていることが表現されている。

この馬に乗っている人は、世界が平和な様を神さまに報告しており、これはバビロンによって起こっていた戦いが終わり、ペルシア帝国によって平和がもたらされている状態が表わされている。
しかし、約束されていた70年が経っても、イスラエルに神の国は訪れず、不安になっている人々に対して、神さまがその約束を忘れていないことを示しながらも、まだそれがいつ来るのかという人々の問いには答えなかった。

② 第2(ゼカリヤ1:18-21)と第7(ゼカリヤ5:5-11)の幻

第2の幻ではバビロンを表わす四つの角が登場し、ペルシアを表わす四人の職人によって四つの角は倒され、滅ぼされたことが描写されている。
第7の幻では、エパ升とそれを運ぶ天使の姿を通して、バビロンとペルシアが描写されている。
エパ升とは23リットルという大きな量を計る器で、これが悪に満たされている。
それが象徴されているのがこの中に入っている女で、この女は淫婦大バビロンとして黙示録にも登場している。

それをイスラエルから運び去る天使がペルシアを表わしているというのは、ペルシアが必ずしもいい部分だけではないということを考えると不思議なことだが、この時にはペルシアが天使のような働きをしたということが表わされているのだろう。

③ 第3(ゼカリヤ2:1-13)と第6(ゼカリヤ5:1-4)の幻

第3と第6の幻は、エルサレムの再建についての幻。
第3の幻では、まずエルサレムが計り網で計られている。
計り網は建築のために寸法を測るための道具で、エルサレムが再建されようとしている。
そこに描写されているのは、他の預言書でも記されていたような神の国としての姿。
家畜があふれ、城壁が必要ないほどに平和が訪れている。
それは、主がそこにいてくださるから。
主とともにいることがどれほど国を栄えさせ、多くの国々、人々がその中に招かれている。

第6の幻では、律法を表わす巻物によって盗んだり偽りを言う人々が裁かれる様子が描かれている。
御言葉によって、人々が正しい方向に向かっていくことが示されているのだ。

④ 第4(ゼカリヤ3:1-10)と第5(ゼカリヤ4:1-14)の幻

第4の幻では大祭司ヨシュア、第5の幻ではゼルバベルについて描かれている。
この二人は、この時代を担うために神さまが選んだ人々で、救い主の型でもある。

第4の幻で、大祭司ヨシュアはサタンによって苦しめられ、ボロボロの状態で登場する。
しかし汚れた服はすべて脱がされ、新しいターバンと服が与えられる。
これは、罪がはぎとられ、恵みと贖いによって新しい命が与えられることを彷彿とさせる。
そして大祭司ヨシュアにはこのように告げられる。

ゼカリヤ 3:7 「万軍の【主】はこう言われる。『もし、あなたがわたしの道に歩み、わたしの戒めを守るなら、あなたもまた、わたしの家を治め、わたしの庭を守るようになる。この立っている者たちの間に出入りすることをわたしはあなたに許す。

第5の幻では、7つの灯がついた燭台(メノラー)が登場する。
これは、黙示録の中にも7つの教会の姿として描かれている。
その灯の燃料となっているのは、2本のオリーブの木から絞り出される油。
そのオリーブの木は、大祭司ヨシュアとゼルバベルを表わしている。
このふたりによって神の民たちは光を放つ力を得るということである。

ダビデの子孫であるゼルバベルには、このような言葉が与えられている。

ゼカリヤ 4:6 彼は私にこう答えた。「これは、ゼルバベルへの【主】のことばだ。『権力によらず、能力によらず、わたしの霊によって』と万軍の【主】は言われる。

全ての力はゼルバベル自身によるものではなく、神の霊が注がれることによって起こるというのだ。

⑤ 第9の幻(ゼカリヤ6:9-15)

最後の幻は、これまでの幻の流れをまとめて、第4、第5の幻に繋がる形で描かれている。
ゼカリヤに示されたのは、大祭司ヨシュアに新しい冠をかぶらせ、彼が「一人の人」また「若枝」とも表現されるメシヤの象徴となるということだ。

この時代の人々は、まさにゼルバベルとヨシュアという二人こそ、約束されていたメシヤに違いないと思っていた。
彼らは確かにメシヤを象徴とする存在とはなったが、約束されていた神の国はこの時代には興らなかった。
この時代の人々は、この二人の働きによって信仰的に成長し、国は栄えた。
しかし、残念ながらそれは長続きすることはなく、この時代限りのものだった。

大祭司ヨシュアとゼルバベルが救い主にならなかったのはなぜだったのか?
それは、彼らがイエスさまのような神の子ではなかったからというのは当然の話だが、彼らの改革が律法を中心とした表面的な変化をもたらすものでしかなかったからでもある。
それが人の限界。
世界に本当の救いがもたらされるためには、まだ数百年の月日を必要としていた。