ゼカリヤ7:1-14 ゼカリヤ4『人々は自ら神を求める』 2022/04/10 けんたろ牧師

ゼカリヤ 7:1-14
7:1 ダレイオス王の第四年、第九の月、すなわち、キスレウの月の四日に、ゼカリヤに【主】のことばがあった。
7:2 そのとき、ベテルは【主】の御顔を求めるために、サル・エツェルとレゲム・メレクおよびその従者たちを遣わして、
7:3 万軍の【主】の宮に仕える祭司たちと、預言者たちに尋ねた。「私が長年やってきたように、第五の月にも、断食をして泣かなければならないでしょうか。」
7:4 すると、私に次のような万軍の【主】のことばがあった。
7:5 「この国のすべての民と祭司たちにこう言え。この七十年の間、あなたがたが、第五の月と第七の月に断食して嘆いたとき、本当にこのわたしのために断食したのか。
7:6 あなたがたが食べたり飲んだりするとき、食べるのも飲むのも、自分たちのためではなかったか。
7:7 エルサレムとその周りの町々に人が住み、平和であったとき、またネゲブやシェフェラに人が住んでいたとき、【主】が先の預言者たちを通して告げたことばは、これらのことではなかったのか。」
7:8 それから、ゼカリヤに次のような【主】のことばがあった。
7:9 万軍の【主】はこう言われる。「真実のさばきを行い、誠意とあわれみを互いに示せ。
7:10 やもめ、みなしご、寄留者、貧しい者を虐げるな。互いに対して、心の中で悪を企むな。」
7:11 ところが、彼らは拒んでこれを聞こうともせず、肩を怒らせ、その耳を鈍くして聞き入れなかった。
7:12 彼らは心を金剛石のようにし、万軍の【主】がその御霊によって先の預言者たちを通して送られた、みおしえとみことばを聞き入れなかった。そのため、万軍の【主】から大きな御怒りが下った。
7:13 「彼らは呼ばれても聞かなかった。そのように、彼らが呼んでも、わたしは聞かない──万軍の【主】は言われる──。
7:14 わたしは、彼らを知らないすべての国々に彼らを吹き散らした。この地は、彼らが去った後荒れすたれ、行き来する者もいなくなった。こうして彼らはこの慕わしい国を荒れすたらせた。」

ゼカリヤ書の大きなテーマの一つは、これまでの預言者たちが預言していたように70年経ったにも関わらず、約束されていた神の国が来ないのはなぜなのか?
前回話した幻の部分でもそのことは語られていたが、この結論が7~8章に描かれている。
7~8章が、ゼカリヤ書前半部分の結論と言うことができる。

① 七十年経っても神の国が来なかった理由
前半は、人々が抱いていたこのような疑問の言葉から始まる。

7:3 万軍の【主】の宮に仕える祭司たちと、預言者たちに尋ねた。「私が長年やってきたように、第五の月にも、断食をして泣かなければならないでしょうか。」

断食は、エジプトでの奴隷時代や、バビロン捕囚など、嘆きや悲しみの歴史を覚えるために行っていた宗教的な行事。
でも神殿が再建された今、「まだ断食を続ける意味があるのか?」と彼らは問うたのだ。
そしてゼカリヤは、それに対する主の答えを預言する。

7:5 「この国のすべての民と祭司たちにこう言え。この七十年の間、あなたがたが、第五の月と第七の月に断食して嘆いたとき、本当にこのわたしのために断食したのか。
7:6 あなたがたが食べたり飲んだりするとき、食べるのも飲むのも、自分たちのためではなかったか。

「断食はわたしのためにやっていたことではなく、あなたたちが自分のために勝手にやっていたことではないか」と主は言われるのだ。
本来は、悔い改めのために行うはずだった断食が、いつの間にか自己満足の宗教儀式になってしまっていた。
私たちが行うことも、いつの間にか本来の意味を失って、単なる自己満足のためにやっていることがどれほど多いだろう?
私たちの賛美・礼拝は誰のために行われているだろう?
いつの間にか、自分のためになってしまっていないか?

私たちには、本来の道から外れて自己中心に陥る傾向がある。
方向修正することなく自己中心の道を歩み続けるなら、私たちは祝福が約束された主の道から外れていくことになる。
それがイスラエルの滅亡が意味することであり、神の国の回復が起こらない理由なのだと主は言われる。

② 神の国の到来
8章は、イスラエルが本当の意味で主に立ち返った時にどんなことが起こるかについて書かれている。
これは、これまでの預言者たちも繰り返し伝えてきた、神の国の祝福の約束だ。

ゼカリヤ 8:3 ──【主】はこう言われる──わたしはシオンに帰り、エルサレムのただ中に住む。エルサレムは、真実の都と呼ばれ、万軍の【主】の山は、聖なる山と呼ばれる。
8:4 ──万軍の【主】はこう言われる──再び、エルサレムの広場に、老いた男、老いた女が座り、みな長寿で手に杖を持つ。
8:5 都の広場は、男の子と女の子でいっぱいになる。子どもたちはその広場で遊ぶ。
8:6 ──万軍の【主】はこう言われる──もし、これがその日に、この民の残りの者の目には不思議に見えても、わたしの目には、不思議に見えるだろうか。──万軍の【主】のことば。」

聖書に語られる神の国の祝福は、いわゆる繁栄の神学が主張する姿とは大きく異なる。
神を信じるときに私たちは金持ちになり、豊かになり、問題がなくなる――のではない。
神の国には愛があふれ、助け合い、赦し合い、平和があるのだ。

神さまに聞き、従う時、そこに神の国が始まると聖書は教えている。
私たちは、神の国に生きているだろうか?

③ 神の国の拡大
そしてゼカリヤ書は、神の国が個人には留まるのではなく、どんどん広がっていくことを私たちに教えている。

ゼカリヤ 8:21 一つの町の住民はもう一つの町へ行き、『さあ行って、【主】の御顔を求め、万軍の【主】を尋ね求めよう。私も行こう』と言う。
8:22 多くの国の民、強い国々が、エルサレムで万軍の【主】を尋ね求め、【主】の御顔を求めるために来る。」

そしてそれは、ユダヤだけに留まらず、世界中に広がっていくのだ。

ゼカリヤ 8:23 万軍の【主】はこう言われる。「その日には、外国語を話すあらゆる民のうちの十人が、一人のユダヤ人の裾を固くつかんで言う。『私たちもあなたがたと一緒に行きたい。神があなたがたとともにおられる、と聞いたから。』」

これはまさに、使徒の働きの時代にイエスさまの弟子たちが体験したことだった。
多くの人たちが、イエスの弟子の生き方に驚嘆し、自分もそのように生きたいと思い、自らもイエスに従う者となっていった。
そしてそれは、ユダヤ人たちだけでなく異邦人にも広がり、やがて世界中の人々に影響を与えるようになったのである。

これこそ、福音を伝える聖書的な方法ではないか。
福音を伝えるということを考えるとき、私たちはただただキリスト教について伝えたり、誰かを教会に連れて行ったり、トラクトを配ったりということを考える。
そのように教えられることも多いだろう。

しかし聖書は、まず私たちがキリストともに歩み、神と共に生きる喜びを知ることを教えている。
私たちが喜びにあふれる姿を目にし、その生き方を見るなら、人々は自分もそのようになりたいと願い、自ら主を求めるようになるのだ。

大切なのは、まず私たちが神さまとともに生きる喜びを知ること。
その価値観の中で変えられ、心からそれを体験することだろう。

人々は、規律や戒律の中で、清く正しく生きることを求めるのではない。
逆に、世の価値観に流されて、普通の人として生きることに魅力を感じたりもしない。
私たちが、人から浮いていても堂々と自分らしく生き、その生き方が周りの人たちを助け、愛し、平安があって喜びに満たされ、しかし高ぶることなく謙遜に生きていく姿に惹かれるのだ。
キリストの弟子には、そのような力と魅力がある。

まずは、神と共に生きるところから始めよう。
そして、そこにある喜びに満たされようではないか。