レビ記23:4-16 イースター2022『キリストを表わすユダヤの祭り』 2022/04/17 けんたろ牧師

レビ記23:4-16
23:4 あなたがたが定期的に召集しなければならない聖なる会合、【主】の例祭は次のとおりである。
23:5 第一の月の十四日には夕暮れに過越のいけにえを【主】に献げる。
23:6 この月の十五日は【主】への種なしパンの祭りである。七日間、あなたがたは種なしパンを食べる。
23:7 最初の日に、あなたがたは聖なる会合を開く。いかなる労働もしてはならない。
23:8 七日間、食物のささげ物を【主】に献げる。七日目に聖なる会合を開く。あなたがたは、いかなる労働もしてはならない。」
23:9 【主】はモーセにこう告げられた。
23:10 「イスラエルの子らに告げよ。あなたがたがわたしが与えようとしている地に入り、収穫を刈り入れたなら、収穫の初穂の束を祭司のところに持って行きなさい。
23:11 その束は【主】の前で揺り動かす。あなたがたが受け入れられるためである。祭司は安息日の翌日、それを揺り動かさなければならない。
23:12 あなたがたは、束を揺り動かすその日に、【主】への全焼のささげ物として傷のない一歳の雄の子羊を献げる。
23:13 その穀物のささげ物は油を混ぜた小麦粉十分の二エパであり、【主】への食物のささげ物、芳ばしい香りである。その注ぎのささげ物はぶどう酒で、一ヒンの四分の一である。
23:14 あなたがたは、神へのささげ物を持って行くその日まで、パンも炒り麦も新穀も食べてはならない。これは、あなたがたがどこに住んでいても代々守るべき永遠の掟である。
23:15 あなたがたは、安息日の翌日から、奉献物の束を持って行った日から満七週間を数える。
23:16 七回目の安息日の翌日まで五十日を数え、あなたがたは新しい穀物のささげ物を【主】に献げる。

日本人はお祭り好き。
祭りは、宗教行事の中で大切な役割を果たしている。
一つは、ある出来事を覚えておくため。
もう一つは、祭りを通して人々を一致に導くため。

聖書にも数々の祭りについて記述があるが、ユダヤの祭りには普通とは違う意味もある。
それは、未来に起こる出来事を表わす伏線としての役割。
特に旧約聖書に登場する祭りは、イエスさまを表わすものとして機能している。
今日は、これまで話してきたゼカリヤ書の話を休んで、レビ記から3つの祭りの話をしたい。

目次

① 過ぎ越しの祭り

過ぎ越しとは、BC1500年ころ、エジプトの奴隷となっていたイスラエルが、神さまの助けによってエジプトから脱出した時の出来事を祝う祭り。
ファラオはなかなかイスラエルを解放しようとしなかったが、10の災いがエジプトに起こり、最後にエジプト中の長男が死ぬという出来事が起こり、ついにイスラエルを解放した。
その時、神さまがイスラエルの人々に伝えたのは、彼らが住む家の鴨居に羊の血を塗るということだった。
すると、鴨居に血が塗られた家だけはその災いが起こらなかったという。

この時に起こった災いは、罪人となった全ての人々に必ず起こる死を象徴していた。
そして、キリストを象徴する羊の血を塗られた家にはその災いが訪れないことによって、全ての人々に訪れるはずの死の災いが、キリストによって救いを受けた人々を過ぎ越すということが表わされていたのである。

つまり、この祭りはイエス・キリストが生まれてくる1500年も前に、罪が神の小羊であるイエスによって罪が贖われることを預言するものだったのだ。
その祭りでは、パンを膨らませるための酵母菌を使っていない種なしパンやぶどう酒が食される。
この時酵母菌を使っていないパンを食べるのは、準備する間もなくエジプトを脱出した時のことを思い出すためだが、ユダヤの文化で酵母菌は罪も表している。
種が入っていないパンは、罪のない状態を表しており、罪のないイエス・キリストを表わす伏線となっている。

イエスさまが十字架に掛けられる前の日、最後の晩餐の時にパンとぶどう酒を使った聖餐式を行ったが、それはまさに過ぎ越しのパンとぶどう酒だった。
イエスさまは、種の入っていないパンを裂いて弟子たちに配り、「これは私の体である」と言った。
私たちキリストの弟子は、キリストの体の一部をいただき、その役目を果たしているのだ。
そして、その時に回し飲みされたぶどう酒を通して、イエスさまが流された血を思い出し、自分の罪が赦され、贖われたことを味わうのである。

② 初穂の祭り 

過ぎ越しの祭りは1週間行われるものだが、その間に祝われる収穫の祭りが初穂の祭り。
初穂の祭りは、エジプトを出て、イスラエルに移住した後の最初の収穫を祝う祭り。
初穂の祭りは、過ぎ越しの間にある安息日の翌日に行われる。

過ぎ越しの祭りの間の安息日の翌日ということはどういうことか?
安息日の食事の中で、イエスさまは最初の聖餐式を行い、その日の内にローマ兵たちに連れていかれ、その日の内にユダヤ人たちによって裁かれた。
次の日にはローマ総督の元に連れていかれ、最終的な判決を受け、その日の内に十字架にかけられた。
この辺りの進み方が聖書に記されている通りなのだとすれば、恐ろしいスピードで処刑が実行されたことになる。

いずれにしても、イエスさまは今でいう金曜日に十字架に掛けられ、その日の内に亡くなられた。
そして安息日が始まる夕方までに墓に葬られ、安息日が明けた日曜日の朝、復活されたのである。
そのことについて、パウロは手紙の中でこのように書いている。

Ⅰコリント 15:20 しかし、今やキリストは、眠った者の初穂として死者の中からよみがえられました。

ここで、ユダヤの祭りである初穂の祭りと、イエスさまの復活とは重なっていたことが明らかになる。
約束の地で収穫された最初の収穫を祝う祭りは、神の国で最初に新しい命を受けて復活したイエスさまを祝い、覚えるための祭りでもあったのだ。

私たちは今、西洋の暦に合わせて、「イースター」としてこの復活の日を祝っている。
イースターの成り立ちについてまで話すつもりはないが、私たちはその日を、復活の初穂となってくださったイエスさまを喜び、祝うために用いるのだ。

③ 五旬節

今日は復活を祝う日だが、さらに続きをみていきたい。
それは、初穂の祭りから50日後、麦の収穫を祝う五旬節である。
実はここにも、神さまの綿密な計画が記されている。

さて、復活した後イエスさまは、40日の間弟子たちの元に現れて様々なことを教えられた。
そしてイエスさまは、世界の終わりの時にもう一度戻ってくると約束をして、天に昇って行かれたと聖書には記されている。

その数日後、ユダヤでは五旬節の祭りのとき、突然激しい風とともにイエスさまの弟子たちの上に聖霊が臨んだ。
その時以降、イエスさまを救い主として信じた人たちには聖霊を受けている。
そう、五旬節をギリシア語で言うと、ペンテコステになるのだ。

ここに描かれているユダヤの祭りと、神さまの計画の実現の関係性を見ると、私たちが聖霊を受けるというのはどういうことかということがより明確になる。
イエスさまが初穂として地上に産まれ、神の国を表わし、復活の命を受けて蘇ったように、今度は私たちがイエスさまの代わりに地上で生きていく。
そのために与えられたのが聖霊だったということだ。

イエスさまは、私たちの先駆けとして十字架で死に、蘇られた。
聖霊を受けた私たちもまた、イエスさまと同じようにされ、今復活の命に生きている。
肉体としての死と復活はまだ先のことだけど、復活の命はすでに私たちの内にあることを、私たちは知っておく必要がる。
私たちの中には、キリストの体として生きていく備えが十分にされているのだ。

イエスさまが私たちの初穂となってくださったことを祝うこの復活祭、イエスさまが復活したことの意味を改めて考え、味わおうではないか。