ゼカリヤ9:1-17 ゼカリヤ5『平和の王』 2022/04/24 けんたろ牧師

ゼカリヤ 9:1-17
9:1 宣告。【主】のことばはハデラクの地にあり、ダマスコは、それがとどまる場所。【主】に向けられるのは、人々の、そしてイスラエルの全部族の目。
9:2 これに境を接するハマテや、非常に知恵のあるツロやシドンの目も。
9:3 ツロは自分のために砦を築き、銀をちりのように、黄金を道端の泥のように積み上げた。
9:4 見よ。主はツロを占領し、その富を海に打ち捨てる。ツロは火で焼き尽くされる。
9:5 アシュケロンは見て恐れ、ガザも大いにもだえる。エクロンもだ。自分たちが頼みにしていたものが辱められたからだ。ガザから王が消え失せ、アシュケロンには人が住まなくなる。
9:6 アシュドデには混血の民が住むようになる。わたしはペリシテ人の誇りを断ち切り、
9:7 その口から流血の咎を、その歯の間から忌まわしいものを取り除く。彼も、私たちの神のために残され、ユダの中の一首長のようになる。エクロンもエブス人のようになる。
9:8 わたしは、わたしの家のために、行き来する者の見張りとして衛所に立つ。もはや、虐げる者はそこを通らない。今わたしがこの目で見ているからだ。
9:9 娘シオンよ、大いに喜べ。娘エルサレムよ、喜び叫べ。見よ、あなたの王があなたのところに来る。義なる者で、勝利を得、柔和な者で、ろばに乗って。雌ろばの子である、ろばに乗って。
9:10 わたしは戦車をエフライムから、軍馬をエルサレムから絶えさせる。戦いの弓も絶たれる。彼は諸国の民に平和を告げ、その支配は海から海へ、大河から地の果てに至る。
9:11 あなたについても、あなたとの契約の血のゆえに、わたしはあなたの捕らわれ人を、水のない穴から解き放つ。
9:12 望みを持つ捕らわれ人よ、砦に帰れ。わたしは今日もまた告げ知らせる。二倍のものをあなたに返す、と。
9:13 わたしは、ユダをわたしの弓として引き絞り、これにエフライムをつがえたのだ。ヤワンよ、おまえの子らに向かって。シオンよ、わたしはあなたの子らを奮い立たせ、あなたを勇士の剣のようにする。
9:14 【主】は彼らの上に現れ、その矢は稲妻のように放たれる。【神】である主は角笛を吹き鳴らし、南の暴風の中を進まれる。
9:15 万軍の【主】が彼らの盾となる。彼らは石投げの石で滅ぼし、踏みつける。彼らは血をぶどう酒のように飲み、沸き返る。鉢のように、祭壇の四隅のように、満たされる。
9:16 その日、彼らの神、【主】は、彼らをご自分の民の群れとして救われる。まことに、王冠の宝石がその地できらめく。
9:17 なんという主のいつくしみ。なんという主の麗しさ。穀物は若い男たちを、新しいぶどう酒は若い女たちを栄えさせる。

ゼカリヤ書は9章から2番目のパートとなる。
パート2では、これまでよりもさらに未来に起こる出来事について預言されている。
それは、「イスラエルがどうなるか」という話に留まらず、世界的な神さまの計画についての預言である。

① シリアやペリシテへの裁き
1~8節は、シリアやペリシテへの裁きについて記されている。
これを文字通りに受け取ることもできるが、どの地域の人たちがどのような裁きを受けるかという話は、正直私たちにはあまり関係がない。

私たちにとって大切なのは、シリアやペリシテという国が、イスラエルにとってどのような存在だったかということ。
この2つの国は、イスラエルの建国の時からずっと、イスラエルを悩ませてきた存在だった。
目の上のたんこぶであり、その存在によってイスラエルはいつも不安に駆られていて、少しでも油断すれば侵略されてしまう敵だった。

それが取り除かれることは、イスラエルにとって本当の平和が来ることを意味していた。
「ついに安心できる」「心に平安が訪れる」それがポイントである。

皆さんにとって、いつも心の中に不穏な思いを抱かせ、それがある限り平安になることができないという問題はなんだろうか?
ついに、その問題が取り除かれるときが来る。
神さまは、その嘆きの声を忘れてはいない。
それこそ、ゼカリヤがここで預言した神さまの約束なのだ。

② ろばに乗った王
多くのクリスチャンにとって、ゼカリヤ書9章で印象に残るのは、次の9節ではないだろうか?

9:9 娘シオンよ、大いに喜べ。娘エルサレムよ、喜び叫べ。見よ、あなたの王があなたのところに来る。義なる者で、勝利を得、柔和な者で、ろばに乗って。雌ろばの子である、ろばに乗って。

イエスさまが十字架に掛けられる前、エルサレムに入場した時、わざわざ借りてきてまでロバに乗って入っていたのはこの預言の成就のため。
黙示文学の説明の時に馬が戦いを表わしているという話をした。
それに対して、ろばは平和を象徴する動物である。
ここで表されている、王がろばに乗ってやってくるこの様子が表わしているのは、王が戦いのためではなく、平和をもたらすために訪れるということ。
人々は、そんな平和をもたらしてくれる王を待ち望んでいたのである。

しかし、この言葉は多くのユダヤ人たちに誤解を与える結果にもなった。
ユダヤ人たちは、シリアやペリシテ人を倒し、イスラエルに平和をもたらす政治的な王が来るのだと勘違いしたのである。

しゅろの木を降って、「ホサナ(主よ、お救い下さい)」と叫びながらイエスさまを迎えたユダヤ人たちの気持ちを想像してみて欲しい。
イエスがユダヤを支配する勢力と戦わず、問題を解決してくれる政治的な王ではないと知った時の彼らの落胆はどれほど大きかっただろうか?
その怒りは彼らの期待を憎しみに変貌させ、「イエスを十字架にかけろ!」「殺してしまえ!!」と叫ばせるほどになっていったのである。

③ 契約の血によって解放される
しかし、彼らの元を訪れたメシヤ(王)は、彼らが期待する王とは全然違った。
イエスさまは、国内の政治を安定させて周囲の国々を支配することによって平和をもたらす王ではなく、神さまとの関係の間に平和をもたらす王だった。
イエスさまによってもたらされる平和は、人々が神さまに向かう時、結果的に訪れる平和なのであって、武力によって屈服させることによって起こる平和ではなかったのだ。

9節に続く言葉を読めば、約束されていた平和はもともと武力によるものではないことがわかる。

9:10 わたしは戦車をエフライムから、軍馬をエルサレムから絶えさせる。戦いの弓も絶たれる。彼は諸国の民に平和を告げ、その支配は海から海へ、大河から地の果てに至る。

しかし、人々はそれを理解しなかった。
そして、それに続く言葉としてこのように約束されている。

9:11 あなたについても、あなたとの契約の血のゆえに、わたしはあなたの捕らわれ人を、水のない穴から解き放つ。

イエスさまが十字架の上で流した血、いばらの冠をかぶせられ、釘で打ち付けられて流したその血の契約によって、主は私たちを罪の暗闇の中から解き放ってくださった。

ゼカリヤによって伝えられたこの預言は、本来ユダヤ人たちに宛てて伝えられたものだった。
しかしこの約束はひとつの民族に留まらず、世界中の人々を救い、解き放ち、平和をもたらすことになった。
私たちが、ここに預言されている方を王として迎え、仕えるなら、誰でも約束された神の国に入ることができるのだ。

この世の戦いは止むことがなく、今も世界中で戦争は続いている。
しかし、イエス・キリストを平和の王として心の王座に向かえるなら、私たちは誰でも神の国に入ることができるのだ。

私たちには、誰を王として仕えるかという選択が与えられている。
この世の富や名誉、人々の評価、それともこの世界を支配する悪魔?
それとも、唯一の神、イエスさまに仕える者となるかという選択だ。

ひとりでも多くの方が、イエスさまを王として選ぶことができるよう、心から祈り求めている。