ゼカリヤ10:1-11:17 ゼカリヤ6『救い主の価値』 2022/05/08 けんたろ牧師

ゼカリヤ 10:1-12
10:1 【主】に雨を求めよ、後の雨の時に。【主】は稲光を造り、大雨を人々に、野の草をすべての人に下さる。
10:2 テラフィムは不法を語り、占い師は偽りを見る。夢見る者は意味のないことを語り、空しい慰めを与える。それゆえ、人々は羊のようにさまよい、羊飼いがいないので苦しむ。
10:3 「わたしの怒りは羊飼いたちに向かって燃える。わたしは雄やぎを罰する。」万軍の【主】は、ご自分の群れであるユダの家を訪れ、彼らを戦場の威厳ある馬とされる。
10:4 この群れからかしら石が、この群れから杭が、この群れから戦いの弓が、この群れからすべての指揮する者が、ともどもに出て来る。
10:5 彼らは勇士のようになり、戦場で道端の泥を蹴散らして戦う。【主】が彼らとともにおられるからだ。彼らは馬に乗る者どもを辱める。
10:6 「わたしはユダの家を力づけ、ヨセフの家を救う。わたしは彼らを連れ戻す。わたしが彼らをあわれむからだ。彼らは、わたしに捨てられなかった者のようになる。わたしが彼らの神、【主】であり、彼らに答えるからだ。」
10:7 エフライムは勇士のようになり、その心はぶどう酒に酔ったように喜ぶ。彼らの子らは見て喜び、その心は【主】にあって大いに楽しむ。
10:8 「わたしは合図をして彼らを集める。わたしが彼らを贖ったからだ。彼らは以前のように数を増す。
10:9 わたしは彼らを諸国の民の間にまき散らすが、彼らは遠く離れてわたしを思い出し、その子らとともに生き延びて帰って来る。
10:10 わたしは彼らをエジプトの地から連れ帰り、アッシリアから集める。わたしはギルアデの地とレバノンへ彼らを連れて行くが、そこも彼らには足りなくなる。
10:11 彼らは苦難の海を渡る。海では波を打ち破り、ナイル川のすべての淵を涸らす。アッシリアの誇りは低くされ、エジプトの杖は離れ去る。
10:12 わたしは【主】にあって彼らを力づける。彼らは主の名によって歩き続ける。──【主】のことば。」

ゼカリヤ書、9章以降は神の国についての預言。
パート2では、これまでよりもさらに未来に起こる出来事について預言されている。
それは、「イスラエルがどうなるか」という話に留まらず、世界的な神さまの計画についての預言である。

① 人々は羊のようにさまよい、羊飼いがいないので苦しむ
ゼカリヤは、イスラエルにリーダーが不在となっている状況を描き出していている。

10:2 テラフィムは不法を語り、占い師は偽りを見る。夢見る者は意味のないことを語り、空しい慰めを与える。それゆえ、人々は羊のようにさまよい、羊飼いがいないので苦しむ。

テラフィムは、創世記の時代からイスラエルの間でも見られていた偶像。
羊は民衆を表わし、羊飼いはリーダーを象徴している。
人々は、正しく導いてくれるリーダーが不在なので、自分勝手に偶像や占いによって導きを受けている。
それによって得られるのはもちろん破滅の道だけだ。
このような状況を許しているリーダーたちに、神さまの怒りは燃え上がる。

10:3 「わたしの怒りは羊飼いたちに向かって燃える。わたしは雄やぎを罰する。」万軍の【主】は、ご自分の群れであるユダの家を訪れ、彼らを戦場の威厳ある馬とされる。

ここに記されている状況が、実際にはいつのことなのかはわからないが、このような状況は現代に至るまで起こり続けている。

② 屠られた羊の群れを飼え
11章はかなり難解なので、輪郭だけをぼんやり理解すれば十分である。
幻の中で、ゼカリヤは屠られた羊の群れを飼うようにと命じられる。

ゼカリヤ 11:4 私の神、【主】はこう言われた。「屠られる羊の群れを飼え。

しかし、ゼカリヤが飼うように命じられた羊は、神さまからも、また他の誰からも価値を見出されないような羊だという。
そんな羊を飼うために、ゼカリヤは「慈愛」「結合」と名付けた二本の杖を取り、この羊を飼った。
この羊を愛し、分裂した南北のイスラエルの統一を願っていたということだ。

しかし、ゼカリヤは最終的にこの2本の杖を折ってしまった。
イスラエルには、誰の目から見てもその価値が見いだせないほどに汚れてしまっていたからだ。

見捨てられたような状態の羊たちを飼うゼカリヤの姿は、後に登場するイエスさまの姿と重なっている。
神さまから離れ、自らの道を歩み、神さまから見捨てられたようになったイスラエルのために命を投げ出し、善き羊飼いとして地上に来た。

マタイ 9:36 また、群衆を見て深くあわれまれた。彼らが羊飼いのいない羊の群れのように、弱り果てて倒れていたからである。

ヨハネ 10:11 わたしは良い牧者です。良い牧者は羊たちのためにいのちを捨てます。

③ 銀三十シェケル
この箇所からもうひとつ話しておかなければならないことがある。
これも、この箇所だけ読んでも意味がわかりにくい部分かもしれない。

ゼカリヤ 11:12 私は彼らに言った。「あなたがたの目にかなうなら、私に賃金を払え。もしそうでないなら、やめよ。」すると彼らは、私の賃金として銀三十シェケルを量った。
11:13 【主】は私に言われた。「それを陶器師に投げ与えよ。わたしが彼らに値積もりされた、尊い価を。」そこで私は銀三十を取り、それを【主】の宮の陶器師に投げ与えた。

これは、羊飼いとなったゼカリヤの働きに対して、人々がどれくらいの価値を見出したかということ。
銀三十シェケルという額は、奴隷に支払われるほど低く、不当な賃金である。

しかし私たちは、銀三十シェケルという価値で売り渡された方を知っている。
これはまさに、イスカリオテのユダがイエスさまを裏切った時に支払われた金額である。
ユダはそのことに苦しみ、三十枚の銀を祭司たちに投げ返し、最後は自らの命を絶った。
その不吉な金は長い間誰も手につけられず、陶器師の畑を買って異邦人の墓地にしたと聖書には記されている。(マタイ27:3-10)
この出来事もまた、ゼカリヤ書に記されていた預言の成就なのだ。

例え救い主が来ても、人々はそこに価値を見出さない。
そこに本物があっても、信じなければだれも見向きもせず、意味がないのだ。
イエスさまはこのような話をしていた。

マタイ 13:44 天の御国は畑に隠された宝のようなものです。その宝を見つけた人は、それをそのまま隠しておきます。そして喜びのあまり、行って、持っている物すべてを売り払い、その畑を買います。
13:45 天の御国はまた、良い真珠を探している商人のようなものです。
13:46 高価な真珠を一つ見つけた商人は、行って、持っていた物すべてを売り払い、それを買います。

しかし、人々がそこに価値を見出さないならば、私たちはその宝を手に入れる機会を失い、それは別のものに与えられてしまう。
折角与えられた宝を受け取らず、イスラエルはまさにそのような損失を経験することとなってしまった。

私たちはどうだろう?
そこにちゃんと価値を見出し、全てを投げ捨ててでも受け取りたいと思うだろうか?
それとも、三十シェケルで十分だと侮るだろうか?
皆さんが、神さまとの関係の回復という出来事に、大きな価値を見出すことを心から願っている。