1コリント1:1-9 Iコリント1『キリストの証を確かなものに』 2022/06/12 けんたろ牧師

1コリント 1:1-9
1:1 神のみこころによりキリスト・イエスの使徒として召されたパウロと、兄弟ソステネから、
1:2 コリントにある神の教会へ。すなわち、いたるところで私たちの主イエス・キリストの名を呼び求めているすべての人とともに、キリスト・イエスにあって聖なる者とされ、聖徒として召された方々へ。主はそのすべての人の主であり、私たちの主です。
1:3 私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安があなたがたにありますように。
1:4 私は、キリスト・イエスにあってあなたがたに与えられた神の恵みのゆえに、あなたがたのことをいつも私の神に感謝しています。
1:5 あなたがたはすべての点で、あらゆることばとあらゆる知識において、キリストにあって豊かな者とされました。
1:6 キリストについての証しが、あなたがたの中で確かなものとなったからです。
1:7 その結果、あなたがたはどんな賜物にも欠けることがなく、熱心に私たちの主イエス・キリストの現れを待ち望むようになっています。
1:8 主はあなたがたを最後まで堅く保って、私たちの主イエス・キリストの日に責められるところがない者としてくださいます。
1:9 神は真実です。その神に召されて、あなたがたは神の御子、私たちの主イエス・キリストとの交わりに入れられたのです。

今日から1コリントを読み進めていく。
コリントはギリシアの町のひとつで、ギリシア神話やローマ神話の神殿、また他の偶像であふれていた。
当時コリントは経済的な中心地でもあり、たくさんの国の人たちであふれていたのである。

パウロはこの町でアクラとプリスキラという夫婦と出会い、協力して1年半の間この町に滞在し、福音を届けた。
やがて多くの人々がキリストを信じるようになると、彼らは福音を宣べ伝えるため別の町に旅立って行ったのである。

コリントの教会がパウロたちから自立して数年後、パウロの元にコリントの教会に起こっている問題が報告された。
それはどのような問題だったのか?
そしてその問題に対して、パウロはどのような解決策を提案したのか?
それがコリント人への手紙のテーマとなっている。

① 兄弟ソステネ

1:1 神のみこころによりキリスト・イエスの使徒として召されたパウロと、兄弟ソステネから、

ここでパウロと一緒に名前が出てくるソステネとは誰だろう?
使徒の働きの中で同じ名前の人物が登場している。
パウロが宣教のためにコリントに行ったとき、会堂司として就任していた人物がソステネなのだ。(使徒の働き18章)

このときソステネたちはパウロを捕らえ、ローマ総督の法廷に引き立てたと書かれている。
はっきりと同一人物かどうかは分からないが、もしこれが同じソステネなのであれば、かつてはパウロを迫害する敵として登場したソステネが、悔い改めてパウロと行動をともにしているということになる。

コリントに宛てた手紙の中でわざわざこの人物がともにいることを紹介していることを考えれば、その可能性は少なくはない。
そしてそれは、今私たちに敵対している人たちであっても、神さまによって変えられ、同労者となる可能性があるという希望を与えてくれる。

② キリスト・イエスにあって
さて、コリント人への手紙では、「キリスト・イエス」という言葉が驚くほど繰り返し出てくる。
今日のこの短い箇所だけでも、10回はキリストという言葉が使われている。
1章に1回以上の頻度である。

パウロがコリントの人々に伝えたかったのは、彼らの中にあるコミュニティや、得たもののすべてがキリスト・イエスによって与えられ、キリスト・イエスによって一つとされたのだということだからだ。

それはもちろん、コリントの教会だけのことではなく、私たちにも言えること。
私たちは人生の中でキリスト・イエスと出会い、言葉を受け取り、受け入れて私たちの主とした。
私たちが得たすべてのものは、このキリスト・イエスから受けたものであり、全ては与えられたものなのだ。

そして私たちは、だからこそキリスト・イエスにあって心を一つにし、キリストの体としてともに仕えることができる。
キリストが中心にいなければ、個性も性格も性質もバラバラな私たちは、簡単にいがみ合い、関係も壊れてしまうだろう。

「クリスチャン夫婦の関係は、お互いに神さまを見上げる三角関係が大切」だと言われる。
それは、全てのクリスチャンに関して同じことが言えるのだと思う。

③ キリストの証を確かなものに
さて、5節からの言葉は少し複雑なので、解説を挟みながら読んでいこう。

1:5 あなたがたはすべての点で、あらゆることばとあらゆる知識において、キリストにあって豊かな者とされました。

コリントのクリスチャンたちはあらゆることばとあらゆる知識において、キリストのあって豊かにされたが、それはなぜか?

1:6 キリストについての証しが、あなたがたの中で確かなものとなったからです。

それは、イエスさまが救い主であり、その証が私たちの中で確かなものとなったから。
「証が明らかになる」とは、信仰によって明らかにしていたことが実現し、本当に起こること。
では、救いを受けた彼らに何が起こったか?

1:7 その結果、あなたがたはどんな賜物にも欠けることがなく、熱心に私たちの主イエス・キリストの現れを待ち望むようになっています。

必要なものは全て備えられている。
そして私たちは、主がもう一度地上に来られるその時を心待ちにしているのだ。
審判と裁きが伴う終末のときを、どうして心待ちにできるのか?
なぜならこの約束への確信があるから。

1:8 主はあなたがたを最後まで堅く保って、私たちの主イエス・キリストの日に責められるところがない者としてくださいます。
1:9 神は真実です。その神に召されて、あなたがたは神の御子、私たちの主イエス・キリストとの交わりに入れられたのです。

そして主イエスとの関係は、終末の時まで待たなければならないものではない。
今、信仰を持ったその時から、私たちは主イエスとの関係を始めることができる。
その豊かな交わりの中にあるなら、私たちは終末の時を不安に感じる必要はないだろう。
そしてその日々の交わりの中で、主は私たちを御心に適うものへと変えていき、助け、導いてくださる。

このとき、コリントの教会の人々はこれを思い出させてもらう必要があったのだと思う。
主がパウロを導きこの手紙を書かせ、「主がともにいることを思い出しなさい」と呼びかけてくださった。

私たちもまた、これを思い出す必要があるのではないか。
主がともにいて下さり、主にあって心を一つにすることができるように。