Ⅰコリント1:10-17 Ⅰコリント2『ことばの知恵にはよらない宣教』 2022/06/19 けんたろ牧師
1コリント 1:10-17
1:10 さて、兄弟たち、私たちの主イエス・キリストの名によって、あなたがたにお願いします。どうか皆が語ることを一つにして、仲間割れせず、同じ心、同じ考えで一致してください。
1:11 私の兄弟たち。実は、あなたがたの間に争いがあると、クロエの家の者から知らされました。
1:12 あなたがたはそれぞれ、「私はパウロにつく」「私はアポロに」「私はケファに」「私はキリストに」と言っているとのことです。
1:13 キリストが分割されたのですか。パウロがあなたがたのために十字架につけられたのですか。あなたがたはパウロの名によってバプテスマを受けたのですか。
1:14 私は神に感謝しています。私はクリスポとガイオのほか、あなたがたのだれにもバプテスマを授けませんでした。
1:15 ですから、あなたがたが私の名によってバプテスマを受けたとは、だれも言えないのです。
1:16 もっとも、ステファナの家の者たちにもバプテスマを授けましたが、そのほかにはだれにも授けた覚えはありません。
1:17 キリストが私を遣わされたのは、バプテスマを授けるためではなく、福音を、ことばの知恵によらずに宣べ伝えるためでした。これはキリストの十字架が空しくならないようにするためです。
前回からIコリントのシリーズが始まった。
Iコリントは、パウロがコリントの教会に宛てた手紙。
コリントの教会はパウロたちによって開拓されたが、自立させた後パウロたちはコリントから何年も離れてしまっていた。
しかし、コリントの教会に問題が起こっていることを耳にして、パウロはこの手紙を書いたのである。
コリントの教会が抱えていた問題が何だったのかということが、今日の箇所で明らかにされる。
① キリストにある一致
コリントの教会が抱えていた問題は、争いと分裂の問題だった。
1:10 さて、兄弟たち、私たちの主イエス・キリストの名によって、あなたがたにお願いします。どうか皆が語ることを一つにして、仲間割れせず、同じ心、同じ考えで一致してください。
1:11 私の兄弟たち。実は、あなたがたの間に争いがあると、クロエの家の者から知らされました。
だからこそパウロは、「イエス・キリストにあってあなたたちは一つだ」ということを強調していたし、ここでは彼らを「兄弟たち」と呼んでいる。
分裂し、仲間割れを始めてしまっているコリントのクリスチャンたちに、互いに争うことを止めさせたいから。
少し気をつける必要があるのは、「同じ心、同じ考えで一致してください」ということば。
これは、単一の考え方や行動になるということを意味しているのではない。
私たちはそれぞれに違う性質を持った存在として創られ、違う使命を与えられているので、視点や考え方が違うのは当然のこと。
しかしだからこそ、主イエスを思う気持ちに関しては、同じ心、同じ思いを持ってほしいということ。
② 派閥と分裂
分裂したコリントのクリスチャンたちは、それぞれに派閥を作るようになってしまった。
1:12 あなたがたはそれぞれ、「私はパウロにつく」「私はアポロに」「私はケファに」「私はキリストに」と言っているとのことです。
ある人はコリントに福音を広げたパウロにつくと言い、ある人たちはその後にコリントのリーダーとなったアポロにつくと言った。
また、ケファ(ペテロのヘブル語読み)につくと言い、キリストにつくと言う者もいた。
中でも一番始末が悪いのは、「キリストに」と言った人たち。
一見正しいことを言っているように見えるが、つまり「他の人たちはキリストとともにいない」という意味であり、自分たち以外を排除していたのだ。
これは、典型的なカルトのやり口。
このような分裂が起こり、互いに争う姿は現代の教会にもよく見られる。
「自分が(あるいは自分たちのグループが)正しい」という価値観がその理由。
先ほども言ったように、違いがあるのは当然のこと。
その違いを認めながら、それぞれが神さまに従い、示される道を歩めばいいだけだ。
知識に偏り、正しい教理や教義を探し始めると、自分の考えと違う人たちを排除するようになってしまう。
聖書が本当に神の霊感によって書かれ、神のことばとして記されたなら、その意味が明確ではなく、たくさんの解釈ができるようになっているのはなぜだろう?
「一つの正しい答えが」必要だったなら、もっと明瞭な記され方だったのではないか?
もちろん、私たちはそこから真理を見出そうと努力し、よく考えることも大切だと思う。
しかし聖書の言葉はむしろ、私たちがそれぞれの状況や使命に合わせて色んな捉え方ができるように書かれているのではないだろうか?
この話はあとに出てくる、「ことばの知恵によらない福音」という言葉に繋がっている。
パウロはそれが、自分が洗礼を授けることよりも大切な事だと言っているのである。
③ ことばの知恵によらない宣教
主の御名によって洗礼を授けること、受けることはたいせつなことではあるけれど、コリントではそれが分裂を生み出し、争いを起す原因にもなってしまった。
パウロは自ら洗礼を授けるのではなく、他の人たちにそれをやらせた。
このパウロの行動そのものが、「誰から洗礼を受けたか」ではなく、「誰の名によって洗礼を受けたか」が大切だということを表わしていた。
パウロは、神さまがそのように導いてくださったことを感謝していると言っている。
1:14 私は神に感謝しています。私はクリスポとガイオのほか、あなたがたのだれにもバプテスマを授けませんでした。
1:15 ですから、あなたがたが私の名によってバプテスマを受けたとは、だれも言えないのです。
1:16 もっとも、ステファナの家の者たちにもバプテスマを授けましたが、そのほかにはだれにも授けた覚えはありません。
では、「ことばの知恵によらず福音を宣べ伝える」とはどういうことなのだろう?
1:17 キリストが私を遣わされたのは、バプテスマを授けるためではなく、福音を、ことばの知恵によらずに宣べ伝えるためでした。これはキリストの十字架が空しくならないようにするためです。
一つには、先ほどまでの話しで表されていたように、正しい教理や教義を教えることが宣教の中心ではなかったということ。
もう一つは、ことばではなく、聖霊の働きによる神の業によって行われてきた宣教だったということである。
福音とは、主イエスの十字架と聖霊の内住によって始まった、父なる神との関係であって、「正しい教義や教理の知識のこと」ではない。
だからこそ福音は、知恵のことばによらず神の業によって伝えられるもの。
そしてだからこそ福音は、誰でも――つまり十分な教育を受けていない奴隷や、子どもでも――受け取ることができるものなのだ。
そして、サマリヤの女やゲラサの狂人のように、聖書の知識など何も持っていないに等しい人たちも福音を伝え、多くの人たちがイエスさまに導かれた理由もまた、そこにあるのだと思う。
大切な事は、まず私たち自身が、知識や知恵のことばを蓄えることに一所懸命になるのではなく、神さまとの関係の中に生き始めること。
その時私たちは、知識による一致ではなく、御霊による一致によって、互いに争うことなく共に歩んでいくことができるようになるはずだ。