Iコリント1:18-31 Iコリント3『神の愚かさ、神の弱さ』 2022/07/03 けんたろ牧師

1コリント 1:18-31
1:18 十字架のことばは、滅びる者たちには愚かであっても、救われる私たちには神の力です。
1:19 「わたしは知恵ある者の知恵を滅ぼし、悟りある者の悟りを消し去る」と書いてあるからです。
1:20 知恵ある者はどこにいるのですか。学者はどこにいるのですか。この世の論客はどこにいるのですか。神は、この世の知恵を愚かなものにされたではありませんか。
1:21 神の知恵により、この世は自分の知恵によって神を知ることがありませんでした。それゆえ神は、宣教のことばの愚かさを通して、信じる者を救うことにされたのです。
1:22 ユダヤ人はしるしを要求し、ギリシア人は知恵を追求します。
1:23 しかし、私たちは十字架につけられたキリストを宣べ伝えます。ユダヤ人にとってはつまずき、異邦人にとっては愚かなことですが、
1:24 ユダヤ人であってもギリシア人であっても、召された者たちにとっては、神の力、神の知恵であるキリストです。
1:25 神の愚かさは人よりも賢く、神の弱さは人よりも強いからです。
1:26 兄弟たち、自分たちの召しのことを考えてみなさい。人間的に見れば知者は多くはなく、力ある者も多くはなく、身分の高い者も多くはありません。
1:27 しかし神は、知恵ある者を恥じ入らせるために、この世の愚かな者を選び、強い者を恥じ入らせるために、この世の弱い者を選ばれました。
1:28 有るものを無いものとするために、この世の取るに足りない者や見下されている者、すなわち無に等しい者を神は選ばれたのです。
1:29 肉なる者がだれも神の御前で誇ることがないようにするためです。
1:30 しかし、あなたがたは神によってキリスト・イエスのうちにあります。キリストは、私たちにとって神からの知恵、すなわち、義と聖と贖いになられました。
1:31 「誇る者は主を誇れ」と書いてあるとおりになるためです。

コリントの教会は、パウロたちが福音を伝えたことによって始まった教会だった。
しかし、コリントの教会は大きな問題を抱えていた。
それは分裂の問題である。

ある人はパウロにつくと言い、ある人はアポロに、ある人はペテロに、そしてある人はキリストにつくと言って分裂が起こったのである。
その根底にあるのは、「誰が正しいか」という正しさ論争だった。
パウロはその問題に踏み込んでいく。

① 知恵ではなく
さて、前回の箇所の最後では、パウロが「知恵によらず、十字架の福音を宣べ伝えるために遣わされた」というところで締めくくられていた。
パウロはまず、コリントの教会に争いをもたらしていた「正しさ論争」、そしてその根となっている人間的な知恵を否定するところから始める必要があった。

1:18 十字架のことばは、滅びる者たちには愚かであっても、救われる私たちには神の力です。
1:19 「わたしは知恵ある者の知恵を滅ぼし、悟りある者の悟りを消し去る」と書いてあるからです。
1:20 知恵ある者はどこにいるのですか。学者はどこにいるのですか。この世の論客はどこにいるのですか。神は、この世の知恵を愚かなものにされたではありませんか。

コリントのクリスチャンたちは、知恵に任せて誰が正しいか、誰が間違っているかということを論じ合って争っていたが、「そもそもあなたたちの中に知恵のあるものなんていないではないか」と言うのだ。
しかしそれは、彼らを貶めるための言葉ではない。
神さまはそのような人間の知恵など遥かに超えた素晴らしいものをもたらしたではないかと、福音の素晴らしさを思い出させている。

② 宣教のことばの愚かさ
福音とは、世の常識や勝利の法則とは正反対であり、世の知恵を持つ者たちからは愚かなものに映る。
強い者が勝利する時代にイエスさまは最も弱い者となり、敵に倒されることによって勝利者となられた。
罪人となった人間を救うために、神がわざわざ人間となり、命を投げ出すというのはあまりにも非合理的であり、非効率的な話である。
現代でも、多くの人々がキリスト教の信仰を愚かだと考え否定する。
しかし、人の目には愚かと見える方法で、神さまは人類に救いをもたらした。

1:21 神の知恵により、この世は自分の知恵によって神を知ることがありませんでした。それゆえ神は、宣教のことばの愚かさを通して、信じる者を救うことにされたのです。
1:22 ユダヤ人はしるしを要求し、ギリシア人は知恵を追求します。
1:23 しかし、私たちは十字架につけられたキリストを宣べ伝えます。ユダヤ人にとってはつまずき、異邦人にとっては愚かなことですが、
1:24 ユダヤ人であってもギリシア人であっても、召された者たちにとっては、神の力、神の知恵であるキリストです。

そう、人の目には愚かでも、信じてそれを受け取った私たちにとっては、驚くべき神の力であり、神の知恵なのだ。

③ 誇る者は主を誇れ
パウロは、そもそも神さまが私たち救うように選んだのはなぜだったのかを問う。
それは、私たちが賢く、正しさを知っている人間だったからではない!

1:26 兄弟たち、自分たちの召しのことを考えてみなさい。人間的に見れば知者は多くはなく、力ある者も多くはなく、身分の高い者も多くはありません。

実際には、パウロもアポロもエリートであり、世の中的には知恵があると言われる人たちもその中にはいた。
しかし、地位が低く、教育をほとんど受けていない人たちもたくさん救われていった。
そもそも、神さまの前にあって私たちが得た知識や知恵、教育レベルなどは無に等しいものだ。
だからパウロは、このように言い切る。

1:27 しかし神は、知恵ある者を恥じ入らせるために、この世の愚かな者を選び、強い者を恥じ入らせるために、この世の弱い者を選ばれました。
1:28 有るものを無いものとするために、この世の取るに足りない者や見下されている者、すなわち無に等しい者を神は選ばれたのです。
1:29 肉なる者がだれも神の御前で誇ることがないようにするためです。

私たちが誇るべきなのは、私たちの賢さや、正統性ではない。
主の前には無に等しい私たちが、それにも関わらず救われたということの中に、神さまの素晴らしさがあるはずなのだ。

自分には十分な知恵や知識がないから、福音を伝えることはできないと思っている方はいるだろうか?
神さまは最初から、そのようなものは当てにしていない。
むしろ無に等しい私たちが、心から神さまに聞き従う時に、私たちを通して神さまの御業が表わされることで、人々は私たち家に神さまを見ることになるのだ。
私たちはただ、神さまの前に人々を連れていくだけである。

1:30 しかし、あなたがたは神によってキリスト・イエスのうちにあります。キリストは、私たちにとって神からの知恵、すなわち、義と聖と贖いになられました。
1:31 「誇る者は主を誇れ」と書いてあるとおりになるためです。

だから私たちは、自らの知恵を誇るのではなく、主を誇る者となろう。
私たちが自分の知恵や知識だけに頼るなら、そこには傲慢と他人への批判しか起こらない。
それがどれほど私たちの知恵に満ちた言葉であろうと、人々はそこに神さまを見出すことはないのではないだろうか?