イザヤ書43章 「私があなたを贖った、あなたの名を呼んだ」―見よ、私は新しいことをなすー 2022/07/17 小西孝蔵

 「私はあなたを贖った、あなたの名を呼んだ」

-見よ、私は新しいことをなすー  イザヤ書43章          2022年7月10日

  • 始めに(聖書朗読の前に、最近の感想)

・コロナが収束し始めたと思ったら、また、増え始めた。コロナの暮らしへの影響-私の友人のサービス業の小さな会社が、コロナによる売上大幅減で1億円を超える借金。返済のめどが立たず、大変。誰も肩代わりができない。

・私も昔の職場で数千億単位で負債の償還で大変苦しんだことを想いだし、その時は、在任中に債務問題を片づけて、何とか転任できたので救われたことがあったので、借金経営の状態は、他人ごとではない感想。

・借金の話題は、唐突だが、本日の聖書箇所と関連が深いので、あえて紹介。

〇聖書朗読;イザヤ43章1節~4節(パワポ資料) (祈り)

 

2.これまでの振り返り

・今回は、イザヤ書の学びの5回目。前回は、イザヤ42章から、主の僕が「傷ついた葦を折ることなく、くすぶる灯芯を消すことなく、真実をもって公義をもたらす」(3節)というみ言葉を学んだ。(パワポ資料-地図)イザヤ書40章から55章までは、第2イザヤともいわれ、イザヤ書1~39章の時代から100年程後、ユダ国がバビロンに滅ぼされた後のバビロン捕囚(BC586~538年)後期(紀元前6世紀後半)の状況を踏まえて書かれたと言われる。

・ユダの民が神に逆らって偶像を拝み、罪を犯し続けてきたことへの裁きとして、バビロンに滅ぼされ、捕囚というみじめな生活を強いられてきた。詩編137篇では、バビロンで囚われているユダの民が故郷の詩を歌えと言われて歌う気持ちになれないという切ない望郷の気持ちが歌われているが、ウクライナなど国を追われた難民の方々の気持ちにも通じるところがあるような気がする。こうした当時の状況の中で、罪の赦しと奴隷からの解放を宣言したのが、第2イザヤの預言のメッセージ。

・本日の要旨は、「贖うこと」、「名を呼ぶこと」、「新しくすること」の三つ。(パワポ資料)。イザヤ書の預言を通じて、新約聖書に記されたキリストの姿に迫ってみたい。

 

3.本日の箇所(イザヤ書43章)-贖うこと、名を呼ぶこと、新しくすること

「43:1ヤコブよ、あなたを創造された主はこう言われる。イスラエルよ、あなたを造られた主はいまこう言われる、「恐れるな、わたしはあなたをあがなった。わたしはあなたの名を呼んだ、あなたはわたしのものだ。」

 

1)「贖う」こと(1節)

贖いとは、対価を払って奴隷状態(束縛)から買い戻すこと

 ・漢字でも、左辺の「貝」はお金を表す、右辺は、売買を意味する。聖書では、金銭だけでなく、動物や人の命という対価を払って、負債や借金という束縛から解放するという意味に使われる。

・新約聖書のルカ7章では、キリストがパリサイ人を前に、罪の赦しを借金の免除にたとえられたキリストのたとえ話が記されている。ある金貸しから500デナリの借金をした人と50デナリの借金をした人の二人の借金を帳消しにした場合、どちらが多くその金貸しを愛するだろうかというパリサイ人への問いから、帳消しにしてもらった額が多い方だという答えを引き出された。冒頭に借金の大変さを紹介したが、罪という負債からの解放には、借金地獄からの解放という例えが分かりやすい。

・「贖う」とは、英語でredeemと表現。70人訳として知られるギリシャ語の聖書では、「リトローン」という言葉。旧約聖書では、100回以上使用。イザヤ書でも重要なキーワード。新約でも、キリストご自身やパウロなどによって10数回使われている。

・イザヤ書の今日の箇所では、「贖い」は、政治的奴隷からの解放、さらに、罪の奴隷から解放する意味に使われている。

政治的奴隷(捕囚)からの解放

「43:2あなたが水の中を過ぎるとき、わたしはあなたと共におる。川の中を過ぎるとき、水はあなたの上にあふれることがない。あなたが火の中を行くとき、焼かれることもなく、炎もあなたに燃えつくことがない。」

・神がモーセを通じ、イスラエルの民をエジプトから海を渡って救い出されたこと、ヨシュアによってヨルダン川を渡ってカナンに導かれたこと、ネブカドネザル王のもとで、大きな炉の中に投げ込まれたダニエルが焼かれることなく救い出されたことが思い出されている。

「43:3わたしはあなたの神、主である、イスラエルの聖者、あなたの救主である。わたしはエジプトを与えてあなたのあがないしろとし、クシュとセバとをあなたの代りとする。」

・クシュはエチオピアのこと、セバは、北部エチオピアのこと。ユダを救う代わりに、エジプトとエチオピアを代償にする。これらの国々がペルシャのクロス王によって征服され、ユダの民がバビロン捕囚から解放される代償として支払われる。(パワポ資料-地図)

  • 罪の奴隷からの解放(罪の赦し)

・ユダの民の罪の深さは、神にとっても耐えがたい、しかし、それでもなお、神は、一方的に罪を赦す。政治的奴隷からの解放と同時に、罪の束縛からの解放宣言(24,25節)でもある。

〇イザヤ書43:24「あなたは金を出して、わたしのために菖蒲を買わず、犠牲の脂肪を供えて、わたしを飽かせず、かえって、あなたの罪の重荷をわたしに負わせ、あなたの不義をもって、わたしを煩わせた。43:25わたしこそ、わたし自身のためにあなたのとがを消す者である。わたしは、あなたの罪を心にとめない

・キリストは、私たちの罪の贖いのために、十字架にかけられると弟子たちに繰り返し予告された。「10:45人の子がきたのも、仕えられるためではなく、仕えるためであり、また多くの人のあがないとして、自分の命を与えるためである。」(マルコによる福音書10章)この贖いは、先ほどのギリシャ語「リトローン」の名詞形「リトロン」という言葉、欽定訳では、ransom(身代金)と訳される。パウロも、何度もこの贖いという言葉を使っている。

〇ローマ人への手紙3章「3:24彼らは、価なしに、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いによって義とされるのである。」

・この聖書箇所は、私が若いころ、精神的に束縛され、あがいていた自分が、このみ言葉に救われ、解放された時のみ言葉。感謝にあふれる御言葉。十字架の死から復活されたキリストが遣わされた聖霊の働きによって、私たちは、罪の奴隷から解放され、義の奴隷と変えられる(ロマ書6章17~18節)。

 

2)名を呼ぶこと(1節)

①アイデンティティのしるし(回復)

〇イザヤ書43章1節「わたしはあなたの名を呼んだ、あなたはわたしのものだ」。

 ・名前を呼ばれることは、家族の一員として認められること。神様との親しい親子関係が結ばれる大変重要な呼びかけ。神様の深い、一方的な愛がそこにある。

②レミゼラブルのジャンバルジャン

・パンを盗んだジャンバルジャン(映画では、ヒュー・ジャックマン)、彼を追い続ける刑事のジャベール(ラッセルクロ―)が囚人番号で彼を呼ぶ(24601)。その後、ジャンバルジャンは、ミリエル司教に出会う。司教は、銀の食器を盗んで、自分の元に犯人として突き出されたジャンバルジャンの名を呼んでこう言う。「ジャンバルジャン、わが兄弟よ、あなたは、もう、悪に与するものではありません。正直な人間、善に与するものになるのです。私があなたから「贖う」のは、あなたの魂です。私は、暗い思想と破滅の精神からあなたの魂を引き離し、神へお渡しするのです。」ミリエル司教は、ヴィクトル・ユーゴーがモデルとしたフランスの実在の司教。

・ジャンバルジャンの名を呼んで優しく諭した、このミリエル司教の言葉は、まさに、私たちの罪の身代わりとなられた、キリストの贖いの愛を表している言葉。

③あなたは、高価で貴い

〇イザヤ書43章4節「43:4あなたはわが目に尊く、重んぜられるもの、わたしはあなたを愛するがゆえに、あなたの代りに人を与え、あなたの命の代りに民を与える。

・神の目から見て、すべての人は、わが子であり、高価で貴く、かけがえのない存在である。私たちに注がれる神様の愛は、キリストが罪人である私たちの身代わり、代償として、死に値する罪の負債を帳消しにして下さる、罪による滅びから救い出してくださる、何という恵み。この言葉は、次の18節の言葉につながる。

 

3)すべては新しくなる(19節)

〇イザヤ書43章

 43:18「あなたがたは、さきの事を思い出してはならない、また、いにしえのことを考えてはならない。43:19見よ、わたしは新しい事をなす。やがてそれは起る、
あなたがたはそれを知らないのか。わたしは荒野に道を設け、さばくに川を流れさせる

  • ユダヤの民にとっては、直接的には、クロス王による捕囚からの解放とエルサレムの復興を意味する。
  • 新約の時代では、キリストの十字架による罪の緩いと復活による新生(永遠の命)を意味する。我々は、肉体の弱さと罪との葛藤にあるが、希望は失わない。たとえ、私たちの外なる人が衰えても、聖霊の働きによって内なる人は日々新たにされる。たとえ、無力感に陥るときでも、病や高齢になって衰えを感じる時でも、復活の希望をもって、感謝して生きることができる

〇Ⅱコリント5:17「だれでもキリストにあるならば、その人は新しく造られた者である。古いものは過ぎ去った、見よ、すべてが新しくなったのである。 5:18しかし、すべてこれらの事は、神から出ている。神はキリストによって、わたしたちをご自分に和解させ、かつ和解の務をわたしたちに授けて下さった。」

  • パウロは、第2コリント書において、生きている人が、もはや自分のために生きるのではなく、私たちのために死んで蘇られたキリストのために生きることだとしている。即ち、自己中心の生き方から、キリストのため、隣人のために生きること。

・憎しみや偏見によって分断された世界にあっても、私たちには、復活されたキリストの使者(大使)として、神と人との和解の福音を伝える使命が与えられている。

・現代の日本、経済も社会も人々の精神状態も行き詰まっている、荒野の時代です。この時代だからこそ、新しいことをなさる神様の業に委ね神様の時(カイロス)を信じて、期待して、失敗を恐れず、一歩踏み出してみてはいかがでしょうか。

 

4.総括

・本日の要約(パワポ資料)にあるように-イザヤ書43章を通じて、贖いの意味と主にあって新しくされる喜びを学びました。私たち自身もユダヤの民のように、罪の奴隷と滅びの縄目から霊的に解放されたことを感謝し、希望と喜びをもって、キリストと共に歩んでいきたいと切に願います。

・最後に、本日のメッセージのタイトル「恐れるな、わたしはあなたを贖った。わたしはあなたの名を呼んだ。」(イザヤ書43章1節)の神様からの語り掛けに対して、感謝をもって受け止めようとする賛美の詩が詩編103篇です。ご一緒に拝読して終わりたい。

 

〇詩編103篇「2わがたましいよ 主をほめたたえよ主が良くしてくださったことを何一つ忘れるな。3主は、あなたのすべての咎を赦し、あなたのすべての病を癒やし 4あなたのいのちを穴から贖われる。5あなたの生きながらえるかぎり、良き物をもってあなたを飽き足らせられる。こうしてあなたは若返って、わしのように新たになる

 

       (祈り)