Iコリント3:1-9 Iコリント5『肉から御霊に属する人へ』

Iコリント 3:1-9
3:1 兄弟たち。私はあなたがたに、御霊に属する人に対するようには語ることができずに、肉に属する人、キリストにある幼子に対するように語りました。
3:2 私はあなたがたには乳を飲ませ、固い食物を与えませんでした。あなたがたには、まだ無理だったからです。実は、今でもまだ無理なのです。
3:3 あなたがたは、まだ肉の人だからです。あなたがたの間にはねたみや争いがあるのですから、あなたがたは肉の人であり、ただの人として歩んでいることにならないでしょうか。
3:4 ある人は「私はパウロにつく」と言い、別の人は「私はアポロに」と言っているのであれば、あなたがたは、ただの人ではありませんか。
3:5 アポロとは何なのでしょう。パウロとは何なのでしょう。あなたがたが信じるために用いられた奉仕者であって、主がそれぞれに与えられたとおりのことをしたのです。
3:6 私が植えて、アポロが水を注ぎました。しかし、成長させたのは神です。
3:7 ですから、大切なのは、植える者でも水を注ぐ者でもなく、成長させてくださる神です。
3:8 植える者と水を注ぐ者は一つとなって働き、それぞれ自分の労苦に応じて自分の報酬を受けるのです。
3:9 私たちは神のために働く同労者であり、あなたがたは神の畑、神の建物です。

パウロは、分裂という問題に直面していたコリントのクリスチャンたちにこの手紙を書いた。
コリントの教会がひとつになる事を阻害していたのは「知恵」であり「知識」。
ギリシア哲学が盛んだったコリントの人々は、勉強熱心である一方で知に偏り過ぎてしまう傾向があった。
それが彼らを、神さまから遠ざけることとなり、派閥争いに向かわせたのである。

ここまでにパウロが記してきたのは、「本当に大切なのは人の知恵ではなく、神の知恵である」ということだった。
3章では、神の知恵に生きるための方法をさらに深く掘り下げていく。

① 肉に属する人と御霊に属する人
パウロは、今のコリントのクリスチャンたちの状態をこのように表現している。

3:1 兄弟たち。私はあなたがたに、御霊に属する人に対するようには語ることができずに、肉に属する人、キリストにある幼子に対するように語りました。

肉に属する人、御霊に属する人とはどんな人達だろうか?
「肉に属する」というと、イメージ的には欲望に忠実な悪い人を思い浮かべるかもしれない。
確かにそれも「肉に属する」人だが、理性や知識が中心で、規律によって道徳的な行動をしている人たちも、実は「肉に属する」人である。
頭で理解し、理性によって自分を律するとき、そこにあるのは自分の力であり、根底には罪に向かう心があるからだ。
つまり、神さまから離れて自分の力で生きようとする人のことを、「肉に属する人」と呼ぶのである。

だから肉に属する人は、あまり困難なことを実行することができない。
人を赦す、愛するという罪の性質に反することは、肉に属する人には著しく困難なことなのである。

3:2 私はあなたがたには乳を飲ませ、固い食物を与えませんでした。あなたがたには、まだ無理だったからです。実は、今でもまだ無理なのです。
3:3 あなたがたは、まだ肉の人だからです。あなたがたの間にはねたみや争いがあるのですから、あなたがたは肉の人であり、ただの人として歩んでいることにならないでしょうか。

一方「御霊に属する」人は、心が神さまと一致している人である。
それは、聖書を勉強し、律法を知り、自分を律して行動するという生き方とは根本的に違う。
自然に神さまを求め、その声に耳を澄ませ、従って行動しようとするので、「しなければならない」という強制力は必要としない。
そして、信じてそれを実行するときに聖霊が働かれるので、困難だと思えることもできてしまったりする。
神さまの心と一致しているので、勉強しなくても聖書に書かれていることが自然に理解できてしまう。
私たちは肉に属したまま聖書に書かれていることを実行しようとするのではなく、御霊に属する人になる必要がある。

② 〇〇派ではなく神さま
そう考えてみると、「パウロ派」とか「アポロ派」という考え方がいかに肉的な発想なのかということがわかってくる。
カトリックかプロテスタントか、バプテストかルター派かという発想も同じ。
表面に見える部分だけで神さまを捉えようとすると、「誰の考え方や説が正しいか」という発想になる。

3:4 ある人は「私はパウロにつく」と言い、別の人は「私はアポロに」と言っているのであれば、あなたがたは、ただの人ではありませんか。
3:5 アポロとは何なのでしょう。パウロとは何なのでしょう。あなたがたが信じるために用いられた奉仕者であって、主がそれぞれに与えられたとおりのことをしたのです。
3:6 私が植えて、アポロが水を注ぎました。しかし、成長させたのは神です。

大切なのは5-6節の視点。
パウロもアポロも、それぞれが神さまの導きに従って行動していたに過ぎない。
それを無視して表面的な考えや行動の部分だけをまねしてもあまり意味はない。
私たち自身が神さまと繋がって御霊に属する人となり、神さまに聞き、従うなら、私たちもパウロやアポロと同列である。

③ 植える者と水を注ぐ者
人を見ると、私たちはどうしても自分と比較してしまい、嫉妬したり見下したりするようになる。
あるいは、マネをしようとして失敗することもあるだろう。
自分とその人は性格も性質も違い、与えられている使命も賜物も違うのだから当然である。
しかし、そんな比較の世界には幸せはない。
自分らしさを失い、自分ではない生き方をしてしまうだけだ。

大切なのは、私たちが私たちを創造し、生かしてくださる神さまを見上げ、神さまに聞き従うことだけだ。

私たちがそれぞれに神さまに従って行動するとき、私たちは自分の役割を果たすことができる。
自分の役割を果たすなら、他の人を見て「自分にはできないと」自信喪失したり嫉妬する必要はない。
むしろ、互いにできることを活かし、できないことを補い合って、ひとつの体として働くことができるのだ。

3:7 ですから、大切なのは、植える者でも水を注ぐ者でもなく、成長させてくださる神です。
3:8 植える者と水を注ぐ者は一つとなって働き、それぞれ自分の労苦に応じて自分の報酬を受けるのです。

植える者や水を注ぐ者ではなく、成長させてくださるお方を見よう。
本当の答えは、そこにしかないのだから。