イザヤ52:7-9、53:1-10 「苦難の僕による赦しと和解-シャーローム-」

目次

1. 初めに

・先週、甲子園の母の介護中、8度余りも発熱、夏風邪と思われるが、急遽家内に救援をお願いして難を逃れた。家族による介護は一つ歯車が狂うと大変、健康管理に万全を。
・昨日は、広島原爆の日。教会では、恵美さんは戦争体験がおありだが。私は、戦争を知らない世代。防空壕に入って遊んだり、親の世代から聞いたり、テレビの特集番組でみたりしている程度。本日のイザヤ書52章、53章の聖書箇所は、終戦当時を思い返しながら読んでみると、より身に迫る気がしてくる。
・前回は、イザヤ書43章、ユダヤの民がバビロン捕囚の後半に、預言された第2イザヤの言葉「恐れるな、私があなたを贖った、あなたは私のものだ。」を通じ、贖いの意味について一緒に学んだ。

2. 本日の聖書箇所(タイトルと要旨参照)

1) 主の僕の詩

・本日の聖書箇所に出てくる「主の僕」の詩は、イザヤ書42章、49章、50章、52章から53章にかけてと4回出てくる。主の僕は、イスラエルの民、預言者など特定の個人を指すが、究極の姿がキリスト。52章、53章では第4回目の主の僕の詩で、受難の僕イエスを預言している、イザヤ書の中でもハイライトの箇所。ヘンデルのメサイアでも第2部、ハレルヤコーラスの主要な部分にあたる。
・イザヤ書は、新約聖書で何度も引用されるので、「主の僕」をキリストの預言として捉えるのは正しい理解。と同時に、主の僕は、ユダヤ民族も私たち自身もキリストに倣うべき「主の僕」であることであることが示されている。このことは後でも触れる。
・本日朗読できなかった53章のはじめから読んでみたい。
〇イザヤ書53章「53:1だれがわれわれの聞いたことを信じ得たか。主の腕は、だれにあらわれたか。53:2彼は主の前に若木のように、かわいた土から出る根のように育った。彼にはわれわれの見るべき姿がなく、威厳もなく、われわれの慕うべき美しさもない。53:3彼は侮られて人に捨てられ、悲しみの人で、病を知っていた。また顔をおおって忌みきらわれる者のように、彼は侮られた。われわれも彼を尊ばなかった。」

2) 十字架による贖い

・イザヤ書53章は、解説なくしてそのまま読んで味わうのが一番。それではすぐに終わってしまうので、簡単に、前回学んだこととの関係を見てみたい。旧約聖書における「贖い」は英語で“redemption”(ギリシャ語で「リトロン」)。動物や金銭などの対価によって奴隷から買い戻す、解放するという意味。これから転じて、神から離れ、神に反抗する人間の原罪ともいうべき、死に値する罪は、罪なき神の子キリストの命という貴い命と引き換えに、赦されて、罪の縛りから霊的に解放されることを意味する。
〇イザヤ書53章「53:4まことに彼はわれわれの病を負い、われわれの悲しみをになった。しかるに、われわれは思った、彼は打たれ、神にたたかれ、苦しめられたのだと。53:5しかし彼はわれわれのとがのために傷つけられ、われわれの不義のために砕かれたのだ。彼はみずから懲しめをうけて、われわれに平安を与え、その打たれた傷によって、われわれはいやされたのだ。」
・この個所は、第1ペテロ2章22~25節で引用されている。この聖書箇所は、私自身、かつて自分で処理しきれない仕事で精神的にも肉体的にも追い詰められて、ダウン寸前までいっていた時に、救われた御言葉。「その打たれし傷によってわれらは癒されたり」と浮かんでくる。病にかかった時も、主が癒してくださるのだという慰めであり、励ましでもある。
・この第1ペテロでの引用箇所では、直前の2章22節でペテロは、「キリストもあなた方のために苦しみを受け、その足跡に続くように模範を残された。」としています。その前のパラにある16、17節では、「神の僕として行動しなさい」「すべての人を敬い、兄弟を愛し、神を畏れ、皇帝を敬いなさい」とあります。私たちは、この個所を私たちが癒される恵みの言葉として受け取るだけでなく、神の僕としてキリストが模範を示されていることを仰ぎ見ながら、その後に従っていくことも忘れないようにしたい。

3) 赦しと平和(シャーローム)

・53章5節の「我々に平安を与え」の「平安」とは、ヘブライ語で「シャーローム」、「平和」「和解」とも訳される言葉です。神に立ち帰って、神と共にある状態、神による義と置き換えることもできる。キリストの十字架の受難と復活により、真の平和、シャーロームが実現することになった。この歴史的な事実を物語る証を取りあげたい。
・冒頭で、太平洋戦争の話をしたが、憎しみと憎しみの連鎖、正義と正義のぶつかり合いが戦争。その中で、敵同士の関係に、キリストの贖いによって赦しと和解がもたらされたという淵田美津雄さんの回心の証しについて紹介したい。講談社文庫で12年前に中田整一さんの編集された自叙伝が最も詳しい。NHK特集でも2016年に、また、キリスト教関係の小冊子でも取り上げられている有名な実話なので、ご存知の方も多いのでは。しかも興味あることに、数年前に、アメリカのビジネスマン出身のマーティン・ベネットさんの書いたWounded Tiger(手負いのトラ)がアマゾンから刊行されている。

4) 元日本兵と元米への回心(淵田美津雄、デシエーザー)

・淵田美津雄さんは、真珠湾爆撃隊の総指揮官、トラトラトラ(我、奇襲ニ成功セリ)の電報を打った本人、ミッドウェー海戦の空母赤城で、負傷後連合艦隊司令部で海軍大佐、総合艦隊参謀として活躍。終戦後、戦争裁判を前にして憎しみを募らせていたころ、フィリピンの捕虜から帰国した兵隊の中で、捕虜収容所で親切にしてくれたアメリカのマーガレットさんの話を聞く。この兵隊さんは、彼女が何故敵である日本兵に親切にしてくれるのかと聞いたところ、彼女の両親がコヴェル宣教師夫妻でスパイ容疑で日本軍に捕らわれて処刑されたこと、処刑時に神に祈っている両親の様子を後から聞いた彼女は、両親の遺志を受け継いで、憎き敵である日本人の捕虜に対して、逆に隣人愛をもって報いることにしたという。この話を聞いて、淵田は、心を動かされる。
・そうした折、淵田は、渋谷で偶然、元米兵のデシエーザーに会う。デシエーザーは、真珠湾攻撃に復讐すべく、ドゥリトル爆撃隊の飛行士として東京大空襲に参加した、東京大空襲に参戦後、中国大陸に不時着、日本軍の捕虜となるが、そこで差し入れられた一冊の聖書を読み始めて、罪を悔い改めて、日本に伝道に訪れていた。
・デシエーザーと聖書に出会った淵田は、聖書を読み始め、フィリピンのコヴェル宣教師の殉教の死を通して、キリストの十字架上の次の言葉を読んで回心する。1950年2月のこと。愛用の聖書の表紙裏に書かれた言葉は、ルカ23章34節の「父よ、彼らを許し給え、そのなすところを知らざるなり」。
〇ルカによる福音書23章「「23:32さて、イエスと共に刑を受けるために、ほかにふたりの犯罪人も引かれていった。 23:33されこうべと呼ばれている所に着くと、人々はそこでイエスを十字架につけ、犯罪人たちも、ひとりは右に、ひとりは左に、十字架につけた。 23:34そのとき、イエスは言われた、「父よ、彼らをおゆるしください。彼らは何をしているのか、わからずにいるのです」。
・その後3年経ったころ、アメリカのスカイパイロットというユース向け団体の牧師から誘いを受け、「ウィングス・フォア・クライスト」という設立目的に魅かれて、米国の10か月の伝道旅行に参加。その中で、歴史的人物として知られる、トルーマン元大統領、マッカーサー元帥、ニミッツ元太平洋艦隊総司令官などと面談し、かつての敵同士が和解の握手を交わす。今日の日米の友好の基礎を築いたことは、当時の駐米日本大使の証言を聞いても分かる。

5) 良きおとずれと神の国

・相手を許せない、社会を許せない、自分が正しい、正義のために戦うと主張するのが私たちの常。現代は、分断の時代とも言われる。身の回りの争いもそうだし、ロシアとウクライナの戦争も同様。憎しみや無関心の連鎖から愛の連鎖に代えることができるのは、無実の神の子イエスの贖いによる新生のわざでしかない。淵田とデシエーザーが手を握り合ったのは、第2コリント5章にあるように、キリストと共に、過去の自分に死んで、新しく造りかえられたからと証言している。
〇Ⅱコリント5:17「だれでもキリストにあるならば、その人は新しく造られた者である。古いものは過ぎ去った、見よ、すべてが新しくなったのである。 5:18しかし、すべてこれらの事は、神から出ている。神はキリストによって、わたしたちをご自分に和解させ、かつ和解の務をわたしたちに授けて下さった。」
・イザヤ書は、この良きおとずれを52章に記している。この聖書箇所は、53章に引き続いて、ヘンデルのメサイア第2部、有名なハレルヤコーラスの導入部分として歌われている。
〇イザヤ書52章「52:7よきおとずれを伝え、平和を告げ、よきおとずれを伝え、救を告げ、シオンにむかって「あなたの神は王となられた」と言う者の足は山の上にあって、なんと麗しいことだろう。」
・よきおとずれは、真の平和、シャーロームである。キリストが神の国の王として全地を支配される、神の義と愛が実現されるから、真の平和がある。しかし、現実の世界はそれとは程遠いという疑問が湧いてこよう。そのことは、第2イザヤの最終回、54章、55章で取り上げたいが、不義がはびこり、争いが絶えなくても、必ず、神の義は、必ずなるという希望を持ち続けることが大切。そして、次の8節の言葉は、まさにハレルヤコーラスそのものの歓喜の歌である。
「52:8聞けよ、あなたの見張びとは声をあげて、共に喜び歌っている。彼らは目と目と相合わせて、主がシオンに帰られるのを見るからだ。52:9エルサレムの荒れすたれた所よ、声を放って共に歌え。主はその民を慰め、エルサレムをあがなわれたからだ。」

3. 最後に

・本日は、イザヤ書52章、53章の苦難の僕を通じて、キリストの十字架による罪の贖い、それによってもたらされた真の平和、平安、和解-シャーローム-について教えられた。また、終戦時に回心し、和解した元海軍大佐と淵田美津雄の証しによって、キリストご自身が真の平和であることも学んだ。
・二つのみ言葉が特に心に残っています。「父よ、彼らを許し給え、そのなすところを知らざるなり」。(イザヤ53章4節)。「その打たれし傷によってわれらは癒されたり」(第1ペテロ2章)。
・最後に、平和、シャーロームをもっとも端的に表している新約聖書の箇所をみんなで読んで終わります。
〇エペソ人への手紙2章「 2:14キリストはわたしたちの平和であって、二つのものを一つにし、敵意という隔ての中垣を取り除き、ご自分の肉によって、 2:15数々の規定から成っている戒めの律法を廃棄したのである。それは、彼にあって、二つのものをひとりの新しい人に造りかえて平和をきたらせ、 2:16十字架によって、二つのものを一つのからだとして神と和解させ、敵意を十字架にかけて滅ぼしてしまったのである。」
(祈り)