Ⅰコリント4:1-5 Ⅰコリント7『神の奥義の管理者』2022/08/21 けんたろ牧師

1コリント 4:1-5
4:1 人は私たちをキリストのしもべ、神の奥義の管理者と考えるべきです。
4:2 その場合、管理者に要求されることは、忠実だと認められることです。
4:3 しかし私にとって、あなたがたにさばかれたり、あるいは人間の法廷でさばかれたりすることは、非常に小さなことです。それどころか、私は自分で自分をさばくことさえしません。
4:4 私には、やましいことは少しもありませんが、だからといって、それで義と認められているわけではありません。私をさばく方は主です。
4:5 ですから、主が来られるまでは、何についても先走ってさばいてはいけません。主は、闇に隠れたことも明るみに出し、心の中のはかりごとも明らかにされます。そのときに、神からそれぞれの人に称賛が与えられるのです。

パウロが福音を宣べ伝えて始まったコリントの教会は、分裂という問題に直面していた。
ある人はパウロにつくと言い、ある人はアポロに、ある人はケファ(ペテロ)に、そしてある人はキリストにつくと主張した。
そんなコリントの教会が、再び一つになれるようにと書いたのがこの手紙。

今日の箇所では、私たちクリスチャンが教会としてどのような意識をもっていくべきかについて話している。

① しもべであり管理者
私たちクリスチャンが意識するべき第一のことは、私たちが「しもべ」であり「管理者」という人に仕える立場であるということ。
この手紙が書かれた時代、しもべとは奴隷のことであり、奴隷とは自分で何かを決めて行動したり、判断するという立場にはない。
だからそこには、「忠実である」ということが求められている。

4:1 人は私たちをキリストのしもべ、神の奥義の管理者と考えるべきです。
4:2 その場合、管理者に要求されることは、忠実だと認められることです。

では、私たちは誰のしもべであり、誰に仕える者なのか?
私たちは「神のしもべ」であり、「神さまのために神の奥義を管理する者」なのである。
そして私たちは、このことを自分自身で理解しているとともに、他人からもそう思われるような存在であるべきであるとパウロは言っているのである。

② 神の奥義の管理者
さて、神のしもべであり、神の奥義の管理者であるとはどういうことだろう?
特に分かりにくいのは、私たちが管理を任されている「神の奥義」かもしれない。
神の奥義とは、神さまがこの地上でなそうとしているあらゆる御業であり、人を助け、救い、愛することである。

天に帰ったイエスさまに代わって、イエスさまがしようとしていることをするのは、私たちの役目だということ。
それは聖書の中で繰り返し語られていることだが、案外多くのクリスチャンはそのことを意識していないように思える。
天国に行けるかどうかということや、教会での奉仕のことばかりが強調されて、私たちの普段の生き方はないがしろにされることすらある。

しかし、私たちが救われてすぐに天に挙げられるのではなく、地上に置かれ、生きていくのは、 キリストの体としてこの地上で働きをしていく必要があるから。
私たちには、それぞれに果たすべき働きや役割があるのだということを決して忘れはならない。

そのために必要なのは、私たちがただただ神さまに従う者として生きていくと言うことに尽きる。
それこそ、キリストのしもべとして生きるということに他ならない。

③ 裁くこと、裁かれること
さて、しもべであり、管理者として生きているパウロは、誰からさばかれたとしても小さなことだと言っている。

4:3 しかし私にとって、あなたがたにさばかれたり、あるいは人間の法廷でさばかれたりすることは、非常に小さなことです。それどころか、私は自分で自分をさばくことさえしません。

パウロは、たくさんの人たちからの批判を受けていた。
ある人たちは、パウロが神の律法に従っていないと言い、それどころか律法を否定して神に背くものだと思われていた。
パウロはかつて共に学んでいたユダヤ教の教師たちからもそのように見られていたし、同じクリスチャンから否定されることも少なくなかった。
現代を生きる私たちも同じようなことに直面する。

しかしパウロはそのような批判に耳を傾け、人からの裁きを恐れることはなかった。
なぜならパウロの言動のすべては、神さまに従った結果だったから。
神さまに忠実に行動しているのであれば、人の意見を気にする必要はない。
また、自分がどう思うかということも重要なことではない。
とは言え、「何をしようが問題ない」ということではもちろんない。
そこには神さまの目と評価があるからである。

4:4 私には、やましいことは少しもありませんが、だからといって、それで義と認められているわけではありません。私をさばく方は主です。

そこにあるのは、一番厳しく激しい神さまのまなざしであり、評価である。
もちろん優しい方ではあるけれど、全てが明らかにされていて、私たちは何も隠すことができない。
私たちはそんな神さまのまなざしさえ意識していれば、大きく問題を起こすようなこともないのではないだろうか。

4:5 ですから、主が来られるまでは、何についても先走ってさばいてはいけません。主は、闇に隠れたことも明るみに出し、心の中のはかりごとも明らかにされます。そのときに、神からそれぞれの人に称賛が与えられるのです。

私たちは人の目や評価を恐れるのではなく、自分で自分を判断するのですらなく、ただ神さまに聞き従おう。