Iコリント5:1-13 Iコリント11『神の国を相続するということ』2022/09/18 けんたろ牧師
1コリント 6:1-11
6:1 あなたがたのうちには、仲間と争いを起こしたら、それを聖徒たちに訴えずに、あえて、正しくない人たちに訴える人がいるのですか。
6:2 聖徒たちが世界をさばくようになることを、あなたがたは知らないのですか。世界があなたがたによってさばかれるのに、あなたがたには、ごく小さな事件さえもさばく力がないのですか。
6:3 あなたがたは知らないのですか。私たちは御使いたちをさばくようになります。それなら、日常の事柄は言うまでもないではありませんか。
6:4 それなのに、日常の事柄で争いが起こると、教会の中で軽んじられている人たちを裁判官に選ぶのですか。
6:5 私は、あなたがたを恥じ入らせるために、こう言っているのです。あなたがたの中には、兄弟の間を仲裁することができる賢い人が、一人もいないのですか。
6:6 それで兄弟が兄弟を告訴し、しかも、それを信者でない人たちの前でするのですか。
6:7 そもそも、互いに訴え合うことが、すでにあなたがたの敗北です。どうして、むしろ不正な行いを甘んじて受けないのですか。どうして、むしろ、だまし取られるままでいないのですか。
6:8 それどころか、あなたがた自身が不正を行い、だまし取っています。しかも、そのようなことを兄弟たちに対してしています。
6:9 あなたがたは知らないのですか。正しくない者は神の国を相続できません。思い違いをしてはいけません。淫らな行いをする者、偶像を拝む者、姦淫をする者、男娼となる者、男色をする者、
6:10 盗む者、貪欲な者、酒におぼれる者、そしる者、奪い取る者はみな、神の国を相続することができません。
6:11 あなたがたのうちのある人たちは、以前はそのような者でした。しかし、主イエス・キリストの御名と私たちの神の御霊によって、あなたがたは洗われ、聖なる者とされ、義と認められたのです。
教会の中で起こっていた分裂の問題と向き合うために書かれたコリント人への手紙第一。
しかしこの手紙は、コリントのクリスチャンたちが直面していた様々な問題に切り込んでいく。
5章では、父親の妻を自分の妻にしたという人の問題が取り上げられていた。
今回は、クリスチャン同士の間で起こった争いについての問題である。
コリントのクリスチャンたちの間では、激しい争いが起こっていた。
クリスチャン同士で争いが起こることはしばしばある。
人間同士の関係なので、それはある程度仕方がないことだろう。
では、パウロは何を問題としていたのだろうか?
① 神さまを知らない人たちに問題の解決を委ねる
第一に、その解決方法に問題があるとパウロは言っている。
6:1 あなたがたのうちには、仲間と争いを起こしたら、それを聖徒たちに訴えずに、あえて、正しくない人たちに訴える人がいるのですか。
6:2 聖徒たちが世界をさばくようになることを、あなたがたは知らないのですか。世界があなたがたによってさばかれるのに、あなたがたには、ごく小さな事件さえもさばく力がないのですか。
コリントのクリスチャンたちは、彼らの間で起こった問題を裁判という方法で解決しようとしたようだ。
この法廷はもちろんクリスチャンではなく、ローマ帝国の法の元に、クリスチャンではない人たちによって裁かれる裁判である。
それのどこに問題があるのか?
それは彼らが、「正しいこと」の判断を、神さまではなく人に、それも神さまを知らない人たちに委ねた部分にある。
6:3 あなたがたは知らないのですか。私たちは御使いたちをさばくようになります。それなら、日常の事柄は言うまでもないではありませんか。
6:4 それなのに、日常の事柄で争いが起こると、教会の中で軽んじられている人たちを裁判官に選ぶのですか。
ここでパウロは、「やがてクリスチャンが世界を裁くときが来るのに、こんな小さな事さえも裁くことができないのか」と言っている。
これはやがて来る千年王国での話をしているのだが、問題はここで判断を神さまに尋ね、委ねようと言う人が誰もいなかったということ。
かつて、ソロモンが素晴らしい王として、素晴らしい裁きを行った時には、善悪の判断を全て神さまに委ねていた。
聖霊を受けた私たちにはそれより優れた裁きを行える可能性があるのに、善悪の判断を神さまではなく人、しかも未信者に委ねていたのでは何もならない。
コリントのクリスチャンたちは、その基本姿勢から崩れてしまっているとパウロは言う。
② 未信者の前で
もう一つの問題は、それを未信者の前で行っていること。
6:6 それで兄弟が兄弟を告訴し、しかも、それを信者でない人たちの前でするのですか。
6:7 そもそも、互いに訴え合うことが、すでにあなたがたの敗北です。どうして、むしろ不正な行いを甘んじて受けないのですか。どうして、むしろ、だまし取られるままでいないのですか。
「不正な行いを甘んじて受けること、だまし取られるままにすることが正しい」というのがポイントではない。
クリスチャン同士が互いに裁き合い、神さまを知らない人たちにその判断をゆだね、その様子を未信者たちに見せるなら、それは何の証になるだろうか?
それくらいなら、まだ不正を甘んじて受けたり、だまし取られていた方がましだという話。
ところがそこにはもっと深刻な問題が起こっている。
6:8 それどころか、あなたがた自身が不正を行い、だまし取っています。しかも、そのようなことを兄弟たちに対してしています。
裁判の現場で起こっていたのは、まさに互いに不正を行い、だまし取り合う姿。
目も当てられない状態に陥っていた。
③ 神の国を相続するということ
パウロはこう続ける。
6:9 あなたがたは知らないのですか。正しくない者は神の国を相続できません。思い違いをしてはいけません。淫らな行いをする者、偶像を拝む者、姦淫をする者、男娼となる者、男色をする者、
6:10 盗む者、貪欲な者、酒におぼれる者、そしる者、奪い取る者はみな、神の国を相続することができません。
勘違いしてはならないのは、ここに書かれているのは裁きを受ける罪のリストではないということ。
この罪を行う人たちを罪人と呼ぶのではなく、罪人はこのような行いの中にいて、留まり続けるのだということ。
この行いをしたから神の国に行けないというのではなく、神の国にこのような行いはないという話。
それを理解しないと、私たちは神の国に行けない絶望に打ちひしがれるか、悪い行いの人たちを裁いて高ぶるだけになってしまう。
パウロはこのように言っている。
6:11 あなたがたのうちのある人たちは、以前はそのような者でした。しかし、主イエス・キリストの御名と私たちの神の御霊によって、あなたがたは洗われ、聖なる者とされ、義と認められたのです。
自分の行いによって神の裁きを受ける必要のない人、罪のない人は誰もいない。
でもそれにもかかわらず、それともそうだからこそ、イエスさまは私たちのために十字架でいのちを投げ出し、私たちを神さまの前に正しい者としてくださったのだ。
だから私たちは、もうこのような行いから離れる。
私たちの心が神さまに向かい、私たちの中で聖霊が生きるとき、私たちはそのようなことを続ける必要がなくなり、神さまが喜ぶことを選び、神さまが喜ばないことから離れていく。
その私たちが善悪の判断を神さまに聞くのではなく、神さまを知らない人たちの判断に委ねてしまうなら、私たちは向かっている方向を間違っているということだ。
私たちはまず、自分自身たちが神の国を相続しているのだということを忘れてはならない。
そしてそれならば、神の国にはないものを神の国に持ち込もうとしないことだ。
それどころか、自ら神の国を離れる選択をしてしまわないように気をつけよう。
神の国は、ことばではなく、力にあるものなのだから。