Iコリント6:12-20 Iコリント12『私たちのからだ』2022/09/25 けんたろ牧師

1コリント 6:12-20
6:12 「すべてのことが私には許されている」と言いますが、すべてが益になるわけではありません。「すべてのことが私には許されている」と言いますが、私はどんなことにも支配されはしません。
6:13 「食物は腹のためにあり、腹は食物のためにある」と言いますが、神は、そのどちらも滅ぼされます。からだは淫らな行いのためではなく、主のためにあり、主はからだのためにおられるのです。
6:14 神は主をよみがえらせましたが、その御力によって私たちも、よみがえらせてくださいます。
6:15 あなたがたは知らないのですか。あなたがたのからだはキリストのからだの一部なのです。それなのに、キリストのからだの一部を取って、遊女のからだの一部とするのですか。そんなことがあってはなりません。
6:16 それとも、あなたがたは知らないのですか。遊女と交わる者は、彼女と一つのからだになります。「ふたりは一体となる」と言われているからです。
6:17 しかし、主と交わる者は、主と一つの霊になるのです。
6:18 淫らな行いを避けなさい。人が犯す罪はすべて、からだの外のものです。しかし、淫らなことを行う者は、自分のからだに対して罪を犯すのです。
6:19 あなたがたは知らないのですか。あなたがたのからだは、あなたがたのうちにおられる、神から受けた聖霊の宮であり、あなたがたはもはや自分自身のものではありません。
6:20 あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。ですから、自分のからだをもって神の栄光を現しなさい。

教会の中で起こっていた分裂の問題と向き合うために書かれたコリント人への手紙第一。
しかしこの手紙は、コリントのクリスチャンたちが直面していた様々な問題に切り込んでいく。

5章から、話はコリントのクリスチャンたちの抱えていた不品行の罪に関して話が及ぶ。
5章では父の妻を自分の妻とした人の罪に言及し、6章では問題の解決方法が間違っていると指摘した。
そしてさらに、クリスチャンでありながら神さまとの関係に生きようとはせず、自らが人を騙し、不正をし、不品行に留まっていることが表わされた。

パウロは様々な罪を上げ連ね、「あなたたちはこのような罪の中にいたが、イエス・キリストを受け入れてその罪が贖われたことを体験したはずではないか。それならばそれにふさわしい生き方をするべきだ」と説く。

① すべてのことは許されている
この後に語られるのは、私たちクリスチャンが陥りやすく、また現代のキリスト教界も抱えている大きな問題であるように思う。

6:12 「すべてのことが私には許されている」と言いますが、すべてが益になるわけではありません。「すべてのことが私には許されている」と言いますが、私はどんなことにも支配されはしません。

「私たちはもう許されているのだから、何をしてもいいではないか」というのが、コリントのクリスチャンたちの考え方だったようだ。
私たちもそのような考えに陥りがち。
私たちの罪は、十字架によって赦された。
そして、私たちクリスチャンは、どのような戒律によっても縛られてはいない。
「すべてのことが私には許されている」と言っていい状態にあるが、それは「だから好き勝手に生きればいい」ということにはならない。
すべてのことが益になるとは限らないからだ。

② 私たちはキリストのからだ
では、なぜ好き勝手に生きていいということにはならないのだろう?
自分の人生なのだから、私たちは好き勝手に生きたって構わないのではないのか?
パウロはこのように話している。

6:15 あなたがたは知らないのですか。あなたがたのからだはキリストのからだの一部なのです。それなのに、キリストのからだの一部を取って、遊女のからだの一部とするのですか。そんなことがあってはなりません。
6:16 それとも、あなたがたは知らないのですか。遊女と交わる者は、彼女と一つのからだになります。「ふたりは一体となる」と言われているからです。

私たちがクリスチャンになるということは、私たちが神との関係を回復し、キリストのからだの一部として生き始めることを意味している。
こうして、神さまとともに生きていくことそのものが救いなのだ。
私たちは、まずそのことを自覚する必要がある。

そして、私たちがキリストのからだの一部として生きていながら、「すべては許されているのだから」と罪の道に進み続けるなら、それは私たちが遊女と交わることと同じなのだ。

③ 神の栄光のために生きる
では、どうすればいいのか?
パウロはこのように書いている。

6:17 しかし、主と交わる者は、主と一つの霊になるのです。

大切なのは、単にキリスト教という宗教に所属するということではないのだということがよくわかる。
私たちに必要なのは、私たちが主とひとつになるということ。
そしてそのためには、関係を深める必要があるのだということ。
結局のところ、そこにしか答えはない。

そして私たちは、自分のからだがどこに属していて、何のために生きているのかということをよく考える必要がある。

6:19 あなたがたは知らないのですか。あなたがたのからだは、あなたがたのうちにおられる、神から受けた聖霊の宮であり、あなたがたはもはや自分自身のものではありません。

私たちは聖霊の宮であり、もはや自分自身のものではないことを知っていただろうか?
いや、本当は自分のものなんて、最初から何もなかった。
自分で得たものなど、何もないのだから。

それどころではない。
私たちは罪という大きな負債を持っていたのに、イエスさまがご自身のいのちによってその代価を払い、私たちは買い取られたのだ。

6:20 あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。ですから、自分のからだをもって神の栄光を現しなさい。

私たちの生き方はどうだろう?
神の栄光を現すような生き方ができているだろうか?
それは「救いの見返りとして奉仕をする」というようなレベルの話ではない。
私たち自身が喜びに満たされ、神さまに聞き従っている状態ということだろう。

これを、「しなければならないこと」と考えたら負担を大きく感じ、自分には到底できないのではないかと思ってしまうだろう。
でも幸いなことに、キリストのからだの一部として、神さまとともに生きる人生は私たちにとって本当に喜びがあり、幸せな生き方であるはずだ。
でもそれは、「自分がやりたいこと」を中心とするのではなく、「やらなければならないこと」でもなく、神さまを中心として生きるとき、初めて体験できる世界。
私たちのからだも、いのちも、全ては神さまから与えられたものなのだから。