Iコリント 7:1-16 Iコリント13 『結婚生活についてのススメ』 2022/10/02 けんたろ牧師

1コリント 7:1-16
7:1 さて、「男が女に触れないのは良いことだ」と、あなたがたが書いてきたことについてですが、
7:2 淫らな行いを避けるため、男はそれぞれ自分の妻を持ち、女もそれぞれ自分の夫を持ちなさい。
7:3 夫は自分の妻に対して義務を果たし、同じように妻も自分の夫に対して義務を果たしなさい。
7:4 妻は自分のからだについて権利を持ってはおらず、それは夫のものです。同じように、夫も自分のからだについて権利を持ってはおらず、それは妻のものです。
7:5 互いに相手を拒んではいけません。ただし、祈りに専心するために合意の上でしばらく離れていて、再び一緒になるというのならかまいません。これは、あなたがたの自制力の無さに乗じて、サタンがあなたがたを誘惑しないようにするためです。
7:6 以上は譲歩として言っているのであって、命令ではありません。
7:7 私が願うのは、すべての人が私のように独身であることです。しかし、一人ひとり神から与えられた自分の賜物があるので、人それぞれの生き方があります。
7:8 結婚していない人とやもめに言います。私のようにしていられるなら、それが良いのです。
7:9 しかし、自制することができないなら、結婚しなさい。欲情に燃えるより、結婚するほうがよいからです。
7:10 すでに結婚した人たちに命じます。命じるのは私ではなく主です。妻は夫と別れてはいけません。
7:11 もし別れたのなら、再婚せずにいるか、夫と和解するか、どちらかにしなさい。また、夫は妻と離婚してはいけません。
7:12 そのほかの人々に言います。これを言うのは主ではなく私です。信者である夫に信者でない妻がいて、その妻が一緒にいることを承知している場合は、離婚してはいけません。
7:13 また、女の人に信者でない夫がいて、その夫が一緒にいることを承知している場合は、離婚してはいけません。
7:14 なぜなら、信者でない夫は妻によって聖なるものとされており、また、信者でない妻も信者である夫によって聖なるものとされているからです。そうでなかったら、あなたがたの子どもは汚れていることになりますが、実際には聖なるものです。
7:15 しかし、信者でないほうの者が離れて行くなら、離れて行かせなさい。そのような場合には、信者である夫あるいは妻は、縛られることはありません。神は、平和を得させようとして、あなたがたを召されたのです。
7:16 妻よ。あなたが夫を救えるかどうか、どうして分かりますか。また、夫よ。あなたが妻を救えるかどうか、どうして分かりますか。

クリスチャンたちの間で起こっていた分裂の問題と向き合うために書かれたコリント人への手紙第一。
5章以降は、問題の原因となっていただろう、コリントのクリスチャンたちが直面していた様々な問題に切り込んでいく。

7章では特に、結婚についての話し。
コリントは性的な乱れが著しく、様々な問題の原因となっていたからだろう。

① 夫と妻の関係
まずは、6章の最後で語られていた、「私たちのからだは自分自身のものでなく、神さまのものである」という話の繋がりから語られている。
自分のからだは自分の妻、あるいは夫に属しているものだから、互いを拒んではいけない。
直接的に語られているのは直接的にはセックスレスの問題だけど、それだけではない聖書の価値観を読み取ることができる。

ひとつは、愛することは自分が中心にはならないということ。
自分が愛したいように愛するのは、聖書の教える愛ではない。
愛する相手を中心にして考え、相手の益となるために力を尽くすことが愛である。

もうひとつは、結婚という関係の大切さ。
「二人はひとつとなる」と創世記に記されている夫婦の関係は、他の人間関係とは違う、さらに深い関係として記されている。

創世記 2:24 それゆえ、男は父と母を離れ、その妻と結ばれ、ふたりは一体となるのである。

夫と妻の関係は、キリスと私たちの関係の中にも表されている。

エペソ 5:24 教会がキリストに従うように、妻もすべてにおいて夫に従いなさい。
5:25 夫たちよ。キリストが教会を愛し、教会のためにご自分を献げられたように、あなたがたも妻を愛しなさい。

な正しい夫と妻の関係性を築くことが、私たちを不品行から遠ざける。
そして、愛するということの意味や、大変さ、尊さを教えてくれるのも夫婦の関係である。

② 独身であること
では、クリスチャンは結婚しなければならないのか?
確かに、結婚から得られる祝福について聖書は書いているが、パウロは必ずしもそれだけが道ではないことを教えている。

7:7 私が願うのは、すべての人が私のように独身であることです。しかし、一人ひとり神から与えられた自分の賜物があるので、人それぞれの生き方があります。

パウロはかつてサンヒドリンというユダヤ人議会の一員であり、そのための条件として既婚者であることがあるため、既婚歴はあるのかもしれないが、この手紙を書いていたころには独身者だった。
そしてパウロは、自分のように独身者として生きることも勧めている。

それは、神さまに仕えることにおいて、もっと身軽になることができるからだ。
家族がいれば、どうしてもその活動は制限されてしまう。
命に関わるようなこともあったから、なおさらのことだろう。
思う存分神さまに仕えて身軽に動くためには独身の方がいいのだとパウロは言う。
しかし、人にはそれぞれ使命や役割もあり、みんなが同じようになる事が正解ではない。
パウロは、結婚するにしてもしないにしても、周りを見て「みんなと同じようにしなければ」と思う必要はないと言っているのだ。

③ 聖書が教える愛
10節以降は、離婚について具体的な話がされているので、特に解説は必要としないと思う。
そこで、少し読み取ることが難しい聖書が伝える結婚の価値観に関して、もう少し掘り下げてみよう。

結婚に関して、現代社会の結婚観と大きく違うのは、結婚の中心は恋愛ではないということだと思う。
現代の社会は恋愛至上主義といえるほどに、恋愛がもてはやされている。
流行りの歌も、映画もドラマも、すべて恋愛が描かれている。

しかし、恋愛というのは人間の中でかなり自己中心的な感情である。
「自分が」相手を思い慕う感情のことであり、コントロールすることもできない。
身も蓋もない言い方をすれば、恋愛とは性欲とほとんど同じものだということ。

聖書は、このような自己中心的な感情で人を愛することを推奨していない。
むしろ、感情的には大好きという感情になれない相手をも愛し、赦し、仕えることを、聖書は教えている。
つまり、聖書の中で勧められている結婚とは、必ずしも恋愛の延長線上にあるものではなく、結婚した相手を生涯心から愛することが求められているということ。
恋愛という感情は勝手に起こるものなので、数年も経てば薄くなり、失われていく。
聖書で語られている愛は、自発的な選択であり、関係性なので、自らそれを捨てるのでない限りはずっと続くものである。
「恋愛から始まってはならない」というわけではないが、大切なのは感情ではなく、関係性であることは忘れてはならない。

神さまの愛と、私たちの信仰にも同じことが言える。
神さまの愛が感情だけのものだったら、私たちはとっくに見捨てられ、滅ぼされていただろう。
でも神さまは、永遠の愛で私たちを愛してくださっている。

エレミヤ 31:3 【主】は遠くから私に現れた。「永遠の愛をもって、わたしはあなたを愛した。それゆえ、わたしはあなたに真実の愛を尽くし続けた。

私たちもまた、神さまを愛し、信頼する選択をし続けよう。
神さまの愛は、永遠のものなのだから。