Iコリント 7:17-24 Iコリント14 『そのままのあなたでいいの?』2022/10/09 けんたろ牧師
1コリント 7:17-24
7:17 ただ、それぞれ主からいただいた分に応じて、また、それぞれ神から召されたときのままの状態で歩むべきです。私はすべての教会に、そのように命じています。
7:18 召されたとき割礼を受けていたのなら、その跡をなくそうとしてはいけません。また、召されたとき割礼を受けていなかったのなら、割礼を受けてはいけません。
7:19 割礼は取るに足りないこと、無割礼も取るに足りないことです。重要なのは神の命令を守ることです。
7:20 それぞれ自分が召されたときの状態にとどまっていなさい。
7:21 あなたが奴隷の状態で召されたのなら、そのことを気にしてはいけません。しかし、もし自由の身になれるなら、その機会を用いたらよいでしょう。
7:22 主にあって召された奴隷は、主に属する自由人であり、同じように自由人も、召された者はキリストに属する奴隷だからです。
7:23 あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。人間の奴隷となってはいけません。
7:24 兄弟たち、それぞれ召されたときのままの状態で、神の御前にいなさい。
クリスチャンたちの間で起こっていた分裂の問題と向き合うために書かれたコリント人への手紙第一。
5章以降は、問題の原因となっていただろう、コリントのクリスチャンたちが直面していた様々な問題に切り込んできた。
7章からは、結婚についての話しになるが、今日の箇所は少し特別な部分。
全体の流れとしては繋がっているのだが、ミスリードになりやすい箇所でもあるので、ここだけ切り離して解説しておく必要があると思う。
① 召されたままの状態で歩む
前回は、信者と未信者が結婚した場合のことについての話しで締めくくられていた。
未信者の配偶者が離れていくならそのままにすればいい、そうでないなら離婚せずそのまま共に過ごしなさいという話だった。
パウロがわざわざこのような話をしたのは、クリスチャンになったら未信者の配偶者と離婚して、クリスチャンの配偶者を迎えたいと思う人たちがいたから。
しかしパウロは、クリスチャンになったからと言って環境を変えるのではなく、今まで通りでいなさいと言っている。
7:17 ただ、それぞれ主からいただいた分に応じて、また、それぞれ神から召されたときのままの状態で歩むべきです。私はすべての教会に、そのように命じています。
クリスチャンになったら、いつもクリスチャンの仲間とともにいたいという気持ちもわかる。
しかし、クリスチャンだけしか関わらないと、世の中では通用しない人間になっていってしまう。
そして、神さまを知らない世の中の人たちには福音を伝えることができなくなってしまう。
私たちが一番福音を伝えやすいのは、同じ環境で、同じ立場にいる人たち。
クリスチャンになった人たちをそれまで所属していたコミュニティから切り離し、教会にだけ繋がらせてはいけないと思う。
結果的にそれは、クリスチャンにしか通じない言葉や価値観の人を増やすことになってしまう。
② 変わるべきこともある
一方で、「そのままの自分である」ということを違う捉え方で受け取ってしまう人たちが増えている現実もある。
ここ数十年の間に「神さまは、そのままのあなたを愛している。だからそのままのあなたでいいんだよ」というメッセージがポピュラーになり、広がっているのを感じる。
それを裏付ける御言葉として、この箇所が引用されることもあるだろう。
しかし、「そのままのあなたで愛されている」ということと、「あなたはそのままでいい」ということは全く別の話しだということを知っておく必要がある。
例えば聖書では、私たちに「悔い改め」が求められている。
神さまは罪人である私たちを愛しているが、それは「罪人のままでいい」ということとは別の問題。
もちろん、自分の力で罪人ではなくなることはできないので、自分が神さまから離れた罪人であったことを自覚し、神さまへと方向転換する必要があるのだ。
また、私たちは成長することができるようにもデザインされている。
「そのままでいい」ということが停滞することを意味しているなら、それは私たちにとって害となる教えである。
私たちは常に成長し、変化していくことができる。
そうして私たちは、キリストの似姿へと変えられていくのである。
Ⅱコリント 3:18 私たちはみな、覆いを取り除かれた顔に、鏡のように主の栄光を映しつつ、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられていきます。これはまさに、御霊なる主の働きによるのです。
③ 割礼も無割礼も取るに足りないこと
この中で一つ気になるのは、この言葉である。
7:19 割礼は取るに足りないこと、無割礼も取るに足りないことです。重要なのは神の命令を守ることです。
割礼とは、男性器の包皮を切り取ることであり、イスラエルの男性が、アブラハムの子孫であることを表わすしるしとして施されていたもの。
ユダヤ人にとって重要なことだったこの行為を、ユダヤ人であるパウロが「取るに足りない」言っていることはとても興味深い。
ユダヤ人たちは、神さまに命じられて割礼を受けた。
しかし、異本人にはそれが求められておらず、特別な理由がない限りは受ける必要がない。
大切なのは、「神さまに従うこと」であり、「聖書に書かれているからそれをする」ということではないということ。
パウロ自身は割礼を受け、それを消すつもりはなかったし、他の人たちもその後を消すべきではないと言っている。
そして他の手紙を読んでいると、ある弟子には理由があって割礼を受けさせ、特に理由がない他の弟子には受けさせなかったことがわかる。
これは割礼の話しだけではなく、全てのことにおいて言える話である。
私たちは、神さまから何をしなさいと命じられているだろう?
自分に命じられていないことについてあれこれ考える必要はない。
でも、神さまは私に「こうしなさい」と言っていると感じたなら、命をかけてそれに従おう。
私たちにその力があるかどうかは関係ない。
神さまが命じることを実行する力は、神さまが与えて下さるものなのだから。