Iコリント8:1-13 Iコリント16『知識より大切なもの』2022/11/06 けんたろ牧師

1コリント 8:1-13
8:1 次に、偶像に献げた肉についてですが、「私たちはみな知識を持っている」ということは分かっています。しかし、知識は人を高ぶらせ、愛は人を育てます。
8:2 自分は何かを知っていると思う人がいたら、その人は、知るべきほどのことをまだ知らないのです。
8:3 しかし、だれかが神を愛するなら、その人は神に知られています。
8:4 さて、偶像に献げた肉を食べることについてですが、「世の偶像の神は実際には存在せず、唯一の神以外には神は存在しない」ことを私たちは知っています。
8:5 というのは、多くの神々や多くの主があるとされているように、たとえ、神々と呼ばれるものが天にも地にもあったとしても、
8:6 私たちには、父なる唯一の神がおられるだけで、この神からすべてのものは発し、この神に私たちは至るからです。また、唯一の主なるイエス・キリストがおられるだけで、この主によってすべてのものは存在し、この主によって私たちも存在するからです。
8:7 しかし、すべての人にこの知識があるわけではありません。ある人たちは、今まで偶像になじんできたため、偶像に献げられた肉として食べて、その弱い良心が汚されてしまいます。
8:8 しかし、私たちを神の御前に立たせるのは食物ではありません。食べなくても損にならないし、食べても得になりません。
8:9 ただ、あなたがたのこの権利が、弱い人たちのつまずきとならないように気をつけなさい。
8:10 知識のあるあなたが偶像の宮で食事をしているのをだれかが見たら、その人はそれに後押しされて、その良心は弱いのに、偶像の神に献げた肉を食べるようにならないでしょうか。
8:11 つまり、 その弱い人は、あなたの知識によって滅びることになります。この兄弟のためにも、キリストは死んでくださったのです。
8:12 あなたがたはこのように兄弟たちに対して罪を犯し、彼らの弱い良心を傷つけるとき、キリストに対して罪を犯しているのです。
8:13 ですから、食物が私の兄弟をつまずかせるのなら、兄弟をつまずかせないために、私は今後、決して肉を食べません。

クリスチャンたちの間で起こっていた分裂の問題と向き合うために書かれたコリント人への手紙第一。
その後話題は、コリントのクリスチャンたちが抱える現実的な罪や問題に移っていった。

7章は結婚についての話が続いていたが、8章に入ると真っ先に出てくるのは「偶像に献げた肉を食べても良いかどうか」について。
これによって話題はユダヤ人と異邦人の分裂の話に戻ったように見えるが、実は話はもう少し複雑で、パウロはもっと深いところにある問題について話している。

① 4つの立場
話しを少し複雑にしてしまっているのは、この話題の中に二つの軸が存在しているから。
ひとつは、「偶像に献げた肉はけがれていると知っているかどうか」という軸。
もうひとつは、「偶像の神が存在しないことを知っているかどうか」という軸。
それによって、ハッキリとは記されていないが、ここには4つの立場が存在する。

第一に、「偶像に献げた肉がけがれていることも、偶像が存在しないことも知らない人たち」
これは、当時の一般的な異邦人未信者の立場。
律法は知らないけど、偶像の神を信じている。

第二に、「偶像に献げた肉がけがれていることは知らないけれど、偶像が存在しないことは知っている人たち」
これは、律法は知らないけれど、非科学的なことには頼らない知的階級。
現代人の多くはここに当てはまるけれど、当時もクリスチャンになって間もない異邦人や、信仰心自体が薄い人たちとして存在していた。

第三に、「偶像に献げた肉がけがれていることは知っているけれど、偶像が存在しないことは知らない人たち」
これは、一般的なユダヤ教徒たちの姿であり、クリスチャンになって間もないユダヤ人もここに入っていただろう。

そして第四に、「偶像に献げた肉がけがれていることも、偶像が存在しないことも知っている人たち」
元ユダヤ教徒のクリスチャンも、異邦人クリスチャンも、知識が増えるにしたがってこのような信仰になっていく。

② 偶像崇拝とは何か?
偶像の神がそもそも存在しないなら、神さまはなぜイスラエル人たちに、偶像崇拝を避けるようにと命じたのか?
それは、偶像崇拝をする心そのものに問題があるから。
偶像とはすなわち、人間が作り、人間に従わせる目的で作った神である。
私たちが物ごとを、自分の思い通りにしたいと思った時、そこにあるのは偶像崇拝の心。

コロサイ 3:5 ですから、地にあるからだの部分、すなわち、淫らな行い、汚れ、情欲、悪い欲、そして貪欲を殺してしまいなさい。貪欲は偶像礼拝です。

そして、偶像に献げた肉を食べることの問題は、私たちがどんな形であれそれに関わることによって、私たちの心や価値観が引っ張られてしまうから。
例え信仰が真の神さまに向かっているつもりでも、偶像と関わることによって、マインドに影響を受けてしまうことがある。
問題の根っこは、偶像を崇拝する行動よりも、私たちの心の中にあるのだ。
だから神さまは、私たちが偶像と関わるようなこと自体を避けるようにと勧めている。

③ 知識を持つ者の務め
最初から偶像の神など信じないという人(第2の立場)や、イエスさまへの全き信仰を持っている人たち(第4の立場の人)の中には、その肉が偶像に献げられたものかどうかということは何の問題にもならない人もいるだろう。
しかし、信仰が必ずしも強くない人たちや、偶像に心を惹かれる人たち(第1や第3の立場)にとっては、どうでもいい話ではない。
例え、「偶像の神などまやかしに過ぎない」と教えられていても、心が引っ張られてしまう弱さも人間の中にはある。
だからパウロは、その様な人たちのために気を使いなさいと勧めている。

8:9 ただ、あなたがたのこの権利が、弱い人たちのつまずきとならないように気をつけなさい。
8:10 知識のあるあなたが偶像の宮で食事をしているのをだれかが見たら、その人はそれに後押しされて、その良心は弱いのに、偶像の神に献げた肉を食べるようにならないでしょうか。

時として問題は、私たちだけのものではなく、周りの人たちに影響を与えるものでもある。
私たちは、愛を持ってそういう人たちも見ていく必要があるのだと思う。
実は、そのことはこの章の冒頭に書かれている。

8:1 次に、偶像に献げた肉についてですが、「私たちはみな知識を持っている」ということは分かっています。しかし、知識は人を高ぶらせ、愛は人を育てます。
8:2 自分は何かを知っていると思う人がいたら、その人は、知るべきほどのことをまだ知らないのです。
8:3 しかし、だれかが神を愛するなら、その人は神に知られています。

皮肉なことに、知識が私たちを間違った方向に向かわせてしまうことがある。
それが正しい知識だったとしても、私たちはその知識の通りに生きられるとは限らない。
知識が私たちを高ぶらせ、他の人を侮り、裁いてしまうこともある。
そもそも、私たちは全てのことが分かっているわけではなく、真理の一部が見えているに過ぎないのだということを忘れてはならない。

本当に大切なのは、愛することなのだ。
私たちが神を愛し、隣人を愛することに勝ることはない。
そして、正しい知識で人にマウントを取るのではなく、弱い人たちに仕えることが私たちには求められている。

8:13 ですから、食物が私の兄弟をつまずかせるのなら、兄弟をつまずかせないために、私は今後、決して肉を食べません。

と、パウロは言った。
ローマ人への手紙の中では、こうも言っている。

ローマ 15:1 私たち力のある者たちは、力のない人たちの弱さを担うべきであり、自分を喜ばせるべきではありません。

もちろん、知識を蓄えることも大切なこと、しかしそれよりももっと大切な事がある。
私たちは信仰の弱い人たちを愛し、支え、仕えているだろうか?
神の国は、知識の中ではなく、愛し合う関係の中にこそあるはずだ。