Iコリント9:1-15 Iコリント17 『権利より大切なもの』 2022/11/13 けんたろ牧師

1コリント 9:1-15
9:1 私には自由がないのですか。私は使徒ではないのですか。私は私たちの主イエスを見なかったのですか。あなたがたは、主にあって私の働きの実ではありませんか。
9:2 たとえ私がほかの人々に対しては使徒でなくても、少なくともあなたがたに対しては使徒です。あなたがたは、私が主にあって使徒であることの証印です。
9:3 私をさばく人たちに対して、私は次のように弁明します。
9:4 私たちには食べたり飲んだりする権利がないのですか。
9:5 私たちには、ほかの使徒たち、主の兄弟たちや、ケファのように、信者である妻を連れて歩く権利がないのですか。
9:6 あるいは、私とバルナバだけには、生活のために働かなくてもよいという権利がないのですか。
9:7 はたして、自分の費用で兵役に服す人がいるでしょうか。自分でぶどう園を造りながら、その実を食べない人がいるでしょうか。羊の群れを飼いながら、その乳を飲まない人がいるでしょうか。
9:8 私がこのようなことを言うのは、人間の考えによるのでしょうか。律法も同じことを言ってはいないでしょうか。
9:9 モーセの律法には「脱穀をしている牛に口籠をはめてはならない」と書いてあります。はたして神は、牛のことを気にかけておられるのでしょうか。
9:10 私たちのために言っておられるのではありませんか。そうです。私たちのために書かれているのです。なぜなら、耕す者が望みを持って耕し、脱穀する者が分配を受ける望みを持って仕事をするのは、当然だからです。
9:11 私たちがあなたがたに御霊のものを蒔いたのなら、あなたがたから物質的なものを刈り取ることは、行き過ぎでしょうか。
9:12 ほかの人々があなたがたに対する権利にあずかっているのなら、私たちは、なおさらそうではありませんか。それなのに、私たちはこの権利を用いませんでした。むしろ、キリストの福音に対し何の妨げにもならないように、すべてのことを耐え忍んでいます。
9:13 あなたがたは、宮に奉仕している者が宮から下がる物を食べ、祭壇に仕える者が祭壇のささげ物にあずかることを知らないのですか。
9:14 同じように主も、福音を宣べ伝える者が、福音の働きから生活の支えを得るように定めておられます。
9:15 しかし、私はこれらの権利を一つも用いませんでした。また、私は権利を用いたくて、このように書いているのでもありません。それを用いるよりは死んだほうがましです。私の誇りを空しいものにすることは、だれにもできません。

クリスチャンたちの間で起こっていた分裂の問題と向き合うために書かれたコリント人への手紙第一。
その後話題は、コリントのクリスチャンたちが抱える現実的な罪や問題に移っていった。

8章のテーマとして取り上げられたのは、「偶像に献げた肉を食べても良いか」について。
それが、人々を分裂へと向かわせる議論の一つとなっていた。
しかし、そのトピックの奥には、「正しい」か「正しくない」かという議論以上のものがあった。
それは、「隣人を愛するかどうか?」ということ。

「偶像に捧げたものはけがれている」という知識を持つ人々は、「偶像に捧げた肉を食べること」は正しくないと判断する。
一方で、「偶像など木や石でしかないのだから、偶像の神など存在しない」という知識を持つ人々は、「偶像に捧げた肉を食べること」を正しい(食べても問題ない)と判断する。
しかしパウロは、その様な知識を持たない人たちを気遣い、隣人として愛して、彼らのために肉は食べないという決断をした。
パウロのその決断が、9章へと続いていく。

① 使徒パウロ
話しを進めるにあたって、パウロは自身の使徒性について同意を求めている。

9:1b-d 私は使徒ではないのですか。私は私たちの主イエスを見なかったのですか。あなたがたは、主にあって私の働きの実ではありませんか。
9:2 たとえ私がほかの人々に対しては使徒でなくても、少なくともあなたがたに対しては使徒です。あなたがたは、私が主にあって使徒であることの証印です。

私たちにとってパウロが使徒であることに疑いを抱くことはないかもしれないが、当時はパウロが使徒であることを認めない人々がたくさんいた。
数年前まではクリスチャンを迫害する側にいたのだから無理もない。

そもそも使徒とは何か?
使徒と言う言葉が使われるとき、現代でも二つの側面があるように思う。
一つは、教会開拓者としての側面。
12使徒たちもイエスさまによって送り出され、このような役割を果たした。
そして、ここでパウロが主張しているのもこの使徒としての役割と立場である。

二つ目は、イエスさまに代わる特別な権威を持つ存在としての側面。
イエスさまが去った後、いつもイエスさまとともにいた使徒たちが人々を導いたのは当然の流れだと思うが、ここに必要以上の権威を与える人々が出てきた。
そして、そういう人々が、パウロの使徒性を認めようとしなかったのだと思う。

現代でも、自らを使徒と名乗り、権威を主張する人々がいるので気をつける必要がある。
そこで彼らが主張しているのは、カトリックの司祭的な価値観が混ざった間違った理解に基づく使徒観であり、自分の言葉に聖書と同等の権威を主張する危険なカルトだから。

② パウロの権利
パウロはここで、使徒として与えられているはずの当然の権利を並べている。

・ 食べたり飲んだりする権利(9:4)
・ 信者である妻を連れて歩く権利(9:5)
・ 生活のために働かなくてもよいという権利(9:6)

その内容を見れば、使徒と言うより人として当然の権利であり、特別な権威などではないことがわかる。
特に多くの言葉を補っているのは、使徒として働くことで報酬を受ける権利について。
奴隷制度が残っていたこの時代では、働くことによって報酬を得ることは当然のことではなかったから。

現代の「牧師」という仕事もそうだが、食べ物を作るわけでも物を作るわけでもないので、そこに対価を支払うというイメージがしにくかったのだと思う。
しかし、ペテロたち他の使徒たちは人々によって支えられ、生活していくことができていたのである。
一方パウロは、自らテントを作り、それを売って生活をしていた。
「本当は、自分もペテロと同じように、あなたたちから献金を受け取って生活してもいいはずでしょう?」というのが、ここで伝えようとしていることである。

③ 権利より大切なもの
しかしパウロは、当然与えられるべきそのような権利を主張としないと言っている。

9:15 しかし、私はこれらの権利を一つも用いませんでした。また、私は権利を用いたくて、このように書いているのでもありません。それを用いるよりは死んだほうがましです。私の誇りを空しいものにすることは、だれにもできません。

現代は、自分の権利を要求し、少しでも多くの権利を自分のものにしようと争い、罵り、奪い合う時代だ。
私たちが権利によって守られることが大切なのは確かなことであり、それはパウロも言っていること。
しかしその上で、与えられて然るべき権利を主張しないのはなぜか?
それは、8章の最後に語られていた言葉と繋がる。

Iコリント 8:13 ですから、食物が私の兄弟をつまずかせるのなら、兄弟をつまずかせないために、私は今後、決して肉を食べません。

それは、自分の権利よりも大切なものが存在するとパウロは信じているから。
パウロは、人の心に届き、福音を伝えるためならどんな犠牲でも払うと言うのだ。
これは、パウロがコリントの人々に、また後の時代に生きる全てのクリスチャンに、もちろん私たちにも与えたチャレンジだ。

とは言え、このような姿勢は、簡単に模倣することができるようなものではない。
表面だけマネをして見せたところで、人には簡単に見抜かれてしまうだろう。
しかし、「自分にはできない」で済ますことができるようなものでもない。
パウロが指し示しているのは、イエスさまが私たちに示した愛がもたらすものであり、神さまに創造されたままの私たちであり、神の国の姿だから。

何度でも言うが、決して自分の力で表面だけマネをしようとしてはならない。
それは、ユダヤ教徒たちが律法を自分の力だけで守ろうとしたのと変わらない。
そんなことをすれば、私たちマジメな日本人はあっという間につぶれてしまうか、手を抜いて、妥協して、宗教にはまった変な人になっていくだけだ。
神さまとともに歩み、神さまによって変えられていこう。
そして、心から神の国を味わおうではないか。