Iコリント9:16-18 Iコリント18 『使命に生きる人に起こること』 2022/11/20 けんたろ牧師

1コリント 9:16-18
9:16 私が福音を宣べ伝えても、私の誇りにはなりません。そうせずにはいられないのです。福音を宣べ伝えないなら、私はわざわいです。
9:17 私が自発的にそれをしているなら、報いがあります。自発的にするのでないとしても、それは私に務めとして委ねられているのです。
9:18 では、私にどんな報いがあるのでしょう。それは、福音を宣べ伝えるときに無報酬で福音を提供し、福音宣教によって得る自分の権利を用いない、ということです。

クリスチャンたちの間で起こっていた分裂の問題と向き合うために書かれたコリント人への手紙第一。
その後話題は、コリントのクリスチャンたちが抱える現実的な罪や問題に移っていった。

8章では、「偶像に献げた肉を食べても良いか」というトピックから始まって、「知識より大切なものがある」という話が展開された。
9章前半では、そこからさらに話が進み、「権利よりもたいせつなものがある」という話。
9章後半では、「正しさよりも大切なもの」があるという話になっていく。

① 福音を宣べ伝えないことはわざわい
パウロは、福音を人々に届けるためには、一切の権利を主張せず、肉を食べることさえ止めると宣言した。
パウロはどうしてそこまでのことが言えたのだろうか?
それは、福音を宣べ伝えることこそ、神さまがパウロに与えた使命だったから。

9:16 私が福音を宣べ伝えても、私の誇りにはなりません。そうせずにはいられないのです。福音を宣べ伝えないなら、私はわざわいです。

私たちに使命として与えられているものは、私たちがしないではいられないこと。
それはたぶん、私たちが自然にできることであり、それが使命や才能であるという自覚はもちにくいものだろう。
でも、だからこそ、報酬のためにそれをするのではなく、それをすることが誇りとなるのでもなく、そうしないではいられないのだ。
私たちが、それをすることそのものが喜びであり、報酬となる。
そして、そのためにはどんなことでも乗り越えることができる。

そんな話をすると、こういう風に考える人がいるかもしれない。
「では、私にとってはパチンコが使命なのかもしれない。」
残念ながら、それは単に自分がやりたいことであって使命ではない。
使命とは、私たちが人を愛し、人に仕えるときに発揮されるものだからだ。

② 自発的に行うこと
私たちが誰かに仕えることは、必ずしもツラく、苦しく、歯を食いしばりながら耐え忍ばなければならないことではない。
もしそうなっているとすれば、それは自分の力で行っているのだろう。

マタイ 6:20 自分のために、天に宝を蓄えなさい。そこでは虫やさびで傷物になることはなく、盗人が壁に穴を開けて盗むこともありません。

イエスさまのこの言葉は時に誤解を持って受け取られる。
「今耐え忍んでがんばれば、天国に行ってから報いを受ける」という考え方である。
神の国は、死んでから行く場所ではないし、結局それは私利私欲でしかない。
これは、主に仕え、人を愛して生きることそのものを宝とすることに他ならない。
それが喜びとなれば、どんな権利も必要とはしなくなるだろう。

では、どうすれば、それが可能なのか?
そのために必要なのは、義務感や強迫観念ではなく、自発的に行うこと。

9:17 私が自発的にそれをしているなら、報いがあります。自発的にするのでないとしても、それは私に務めとして委ねられているのです。

やらされたり、「やらなければならない」という思いで何かをするなら、それが楽しいことでも楽しくなくなるだろう。
本来楽しいことであるはずの学ぶことが、勉強になったとたんに苦痛でしかなくなるのも、そういう理由なのかもしれない。
何かやるべきことがあるなら、自発的にやってみよう。
自ら願い、積極的に関わることによって、それは喜びとなるのだ。

③ 伝道中毒?
パウロはまさに、天に宝を積む生き方をしていた。
だから彼にとって、与えられた使命に生きることそのものが喜びであり、報酬だった。
パウロはこのように続けている。

9:18 では、私にどんな報いがあるのでしょう。それは、福音を宣べ伝えるときに無報酬で福音を提供し、福音宣教によって得る自分の権利を用いない、ということです。

パウロにとって、福音を宣べ伝えることはそれ自体が喜びであり、報酬のためにやっていることではなかった。
そればかりか、福音を誰かに伝えないではいられないほどであり、伝道中毒と言っても間違いではないのかもしれない。

私たちが、神さまから与えられている使命とはどんなものだろうか?
それは、誰かの話に耳を傾け、慰めるということかもしれない。
あるいは、誰かを支え、食べさせ、何かを与えることかもしれない。
私たちがやらないではいられないその出来事が人を助け、支え、建て上げるなら、それは何と素晴らしいことだろうか?

自分のやっていることが、自分に与えられている使命かどうか確認したいと思うなら、簡単なテスト方法がある。
「これは、無報酬でもやりたいと思うことだろうか?」あるいは、「自分が負担を支払ってでもできることだろうか?」と自問自答してみることだ。

もちろん、使命なのだから必ず無報酬でやらなければならないかと言えば、そうではない。
何かを続けていくためにはお金も必要であり、そのために報酬を受けることは当然のことだろう。
だからこそ、それを長く続けることができ、長期間人を助けることができるようになる。
でも、報酬が目的になっているなら、それは仕事であって、使命とは呼べない。
そして、宝を天に積んでいることにもならないだろう。
報酬もまた、「手段」であり「目的」ではないことが大切なのだ。

私たちが何かをしようとするとき、そこにある目的や動機は何だろう?
もう一度それを確認してみてほしい。
そして、与えられた使命のために生きる喜びを体験しよう。