Iコリント9:19-27 Iコリント19『自由より大切なもの』 2022/11/27 けんたろ牧師

1コリント 9:19-27
9:19 私はだれに対しても自由ですが、より多くの人を獲得するために、すべての人の奴隷になりました。
9:20 ユダヤ人にはユダヤ人のようになりました。ユダヤ人を獲得するためです。律法の下にある人たちには──私自身は律法の下にはいませんが──律法の下にある者のようになりました。律法の下にある人たちを獲得するためです。
9:21 律法を持たない人たちには──私自身は神の律法を持たない者ではなく、キリストの律法を守る者ですが──律法を持たない者のようになりました。律法を持たない人たちを獲得するためです。
9:22 弱い人たちには、弱い者になりました。弱い人たちを獲得するためです。すべての人に、すべてのものとなりました。何とかして、何人かでも救うためです。
9:23 私は福音のためにあらゆることをしています。私も福音の恵みをともに受ける者となるためです。
9:24 競技場で走る人たちはみな走っても、賞を受けるのは一人だけだということを、あなたがたは知らないのですか。ですから、あなたがたも賞を得られるように走りなさい。
9:25 競技をする人は、あらゆることについて節制します。彼らは朽ちる冠を受けるためにそうするのですが、私たちは朽ちない冠を受けるためにそうするのです。
9:26 ですから、私は目標がはっきりしないような走り方はしません。空を打つような拳闘もしません。
9:27 むしろ、私は自分のからだを打ちたたいて服従させます。ほかの人に宣べ伝えておきながら、自分自身が失格者にならないようにするためです。

クリスチャンたちの間で起こっていた分裂の問題と向き合うために書かれたコリント人への手紙第一。
その後話題は、コリントのクリスチャンたちが抱える現実的な罪や問題に移っていった。

① 奴隷から自由へ
今日の箇所について話していく上で、前提となる大切な要素がある。
それは、私たちが自由になることの大切さ。
かつて、イエスさまはこのように話していた。

ヨハネ 8:32 あなたがたは真理を知り、真理はあなたがたを自由にします。」

私たちはもともと、誰もが罪の奴隷だった。
多くの人たちは、自分が罪の奴隷であるということに気づくこともなく、罪に捕らえられてその報いを受け、それでもそこから抜け出せない状態で生きていた。
ユダヤ人たちは、律法を与えられ、律法を通して自分たちが罪の奴隷であったことを理解することができた。
しかし、今度は律法によって自分を縛ってしまい、結局自由に生きる道を閉ざしてしまった。

イエス・キリストとともに生きるとき、私たちは、エデンの園でアダムとエバが生きていたように自由を得ることができる。
心から神さまを求め、喜びに満たされるので、私たちは自分を不自由にする罪を求める必要がない。
そして、自らを律法の中に閉じ込める必要もない。
私たちは、自由の中で、心から神さまのみこころを求めていくようになるのだ。

② 自由から奴隷へ
そのことを前提とした上で、パウロはこのように書いている。

9:19 私はだれに対しても自由ですが、より多くの人を獲得するために、すべての人の奴隷になりました。

「せっかく自由になったのに、また奴隷になるのか」と思うかもしれないが、人を愛し、人に仕えることは、自由だからこそできることであり、意味のあること。
自由でなければ、人に仕える余裕などないし、元から奴隷として誰かに仕えているなら、それは義務であり、やらされている仕事であり、やって当たり前のことになってしまう。

しかし、自由な人が心から人に仕えよとするなら、行動は奴隷となることではあるけれど、それは愛であり、人の心を動かすものとなる。
パウロが人に仕える姿の中に、愛を感じることができる。

9:20 ユダヤ人にはユダヤ人のようになりました。ユダヤ人を獲得するためです。律法の下にある人たちには──私自身は律法の下にはいませんが──律法の下にある者のようになりました。律法の下にある人たちを獲得するためです。
9:21 律法を持たない人たちには──私自身は神の律法を持たない者ではなく、キリストの律法を守る者ですが──律法を持たない者のようになりました。律法を持たない人たちを獲得するためです。
9:22 弱い人たちには、弱い者になりました。弱い人たちを獲得するためです。すべての人に、すべてのものとなりました。何とかして、何人かでも救うためです。

ユダヤ人は、食べ物の規定のために、異邦人とは食事をともにせず、離れて生活することが普通だった。
しかしパウロは、ユダヤ人にも異邦人にも、その生活に合わせて行動し、寄り添った。

私たちは、このような柔軟さを持っているだろうか?
自分が信じる正しさを貫くことも時に大切ではあるが、そのために肝心な人との繋がりを失ってしまっては、福音を伝える機会がなくなることもある。
私たちは、与えられている自由を自分のためだけに使うこともできるが、人に仕え、寄り添うためにも使うことができるのだということを忘れないでいて欲しい。

③ 目的を明確にする
この章の最後のことばは、少し理解が難しいかもしれない。

9:24 競技場で走る人たちはみな走っても、賞を受けるのは一人だけだということを、あなたがたは知らないのですか。ですから、あなたがたも賞を得られるように走りなさい。
9:25 競技をする人は、あらゆることについて節制します。彼らは朽ちる冠を受けるためにそうするのですが、私たちは朽ちない冠を受けるためにそうするのです。
9:26 ですから、私は目標がはっきりしないような走り方はしません。空を打つような拳闘もしません。

これも、先週話した天に宝を積むという話と似て、誤解されやすい。
「救いを勝ち取るためにがんばりなさい」という話として理解されてしまいがち。
ここパウロが言っているのは、そういうことではなく、「目的を持ってがんばることの大切さ」について。
アスリートは走るとき、目的もなくただ走るのではなく、賞を勝ち取るために走っている。
ボクシングをする人も、ただシャドーボクシングをするだけで完結する人もおらず、必ず勝つために練習をしているはずだ。
パウロにとってそれは、人々に福音を届けることだった。
そのためならばどんな努力でもできるし、どんなつらい経験も乗り越えられる。
その目標に向かえるように、自分のからだを打ち叩いて服従させるとパウロは言う。

9:27 むしろ、私は自分のからだを打ちたたいて服従させます。ほかの人に宣べ伝えておきながら、自分自身が失格者にならないようにするためです。

では、私たちは誰の目標や目的に服従するために自分のからだを打ち叩くのか?
自分が立てたものなら、自分自身を服従させるまでもないだろう。
それは、神さまの計画の中にある、神さまが示した目標であり、目的なのだ。
イエスさまはこのように言っている。

マタイ 16:24 それからイエスは弟子たちに言われた。「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負って、わたしに従って来なさい。

赦すこと…、仕えること…自分の思いと、神さまの願いは違うことが多い。
それでも私たちは自分を捨て、自分の十字架を負い、イエスさまに従う。
時には、従うために、自分のからだを打ち叩く必要があることもある。
でもそれは、無意味な苦行などではなく、神さまの目的に従うことなのだ。
そして神さまに従って生きていく限り、それはムダな努力には決してならないはずだ。