Ⅰコリント10:1-12 Ⅰコリント20『クリスチャンも油断できない』 2022/12/11 けんたろ牧師

1コリント 10:1-12
10:1 兄弟たち。あなたがたには知らずにいてほしくありません。私たちの先祖はみな雲の下にいて、みな海を通って行きました。
10:2 そしてみな、雲の中と海の中で、モーセにつくバプテスマを受け、
10:3 みな、同じ霊的な食べ物を食べ、
10:4 みな、同じ霊的な飲み物を飲みました。彼らについて来た霊的な岩から飲んだのです。その岩とはキリストです。
10:5 しかし、彼らの大部分は神のみこころにかなわず、荒野で滅ぼされました。
10:6 これらのことは、私たちを戒める実例として起こったのです。彼らが貪ったように、私たちが悪を貪ることのないようにするためです。
10:7 あなたがたは、彼らのうちのある人たちのように、偶像礼拝者になってはいけません。聖書には「民は、座っては食べたり飲んだりし、立っては戯れた」と書いてあります。
10:8 また私たちは、彼らのうちのある人たちがしたように、淫らなことを行うことのないようにしましょう。彼らはそれをして一日に二万三千人が倒れて死にました。
10:9 また私たちは、彼らのうちのある人たちがしたように、キリストを試みることのないようにしましょう。彼らは蛇によって滅んでいきました。
10:10 また、彼らのうちのある人たちがしたように、不平を言ってはいけません。彼らは滅ぼす者によって滅ぼされました。
10:11 これらのことが彼らに起こったのは、戒めのためであり、それが書かれたのは、世の終わりに臨んでいる私たちへの教訓とするためです。
10:12 ですから、立っていると思う者は、倒れないように気をつけなさい。

 

クリスチャンたちの間で起こっていた分裂の問題と向き合うために書かれたコリント人への手紙第一。
その後話題は、コリントのクリスチャンたちが抱える現実的な罪や問題に移っていった。

前回の話は、私たちは自由であること。
自由だからこそ、その自由を使って人を愛することができること。
私たちは、その目的のために自分のいのちを使うのだということについて語られていた。
今日は、旧約聖書からの引用を通して、この手紙を読んでいるユダヤ人たちの心に訴えかけている。

① 出エジプトで表されていたこと
旧約聖書に通じているユダヤ人たちであれば問題なく理解できるだろうが、私たちには少し解説が必要かもしれない。

10:1 兄弟たち。あなたがたには知らずにいてほしくありません。私たちの先祖はみな雲の下にいて、みな海を通って行きました。
10:2 そしてみな、雲の中と海の中で、モーセにつくバプテスマを受け、

パウロは、出エジプトの時の出来事についており、ここにある「雲の下」とは、神さまがイスラエルの民を導いた雲の柱のこと、「海を通って」とは、紅海(葦の海)を通った出来事を意味している。
そして、彼らが海を渡った出来事は、バプテスマを意味にしていたのだということが、パウロの言葉でわかる。

10:3 みな、同じ霊的な食べ物を食べ、
10:4 みな、同じ霊的な飲み物を飲みました。彼らについて来た霊的な岩から飲んだのです。その岩とはキリストです。

3節の「霊的な食べ物」とはマナのことだが、これは私たちが霊的な糧である神の言葉を読み、受け取ることの象徴である。
そして4節の「霊的な飲み物」とは、モーセの杖によって砕かれた岩から流れ出た泉の水である。
この岩は、キリストを表わしていて、そこから流れ出る水は聖霊と考えることができる。

こうして、出エジプトしたイスラエルは、奴隷から解放され、新しい命を受けるバプテスマを受け、霊の食べ物と飲み物を受け取り、神さまに寄って養われ、導かれていた。
それは、クリスチャンとなった私たちにも同じことが言えるだろう。

② 私たちに与えられている教訓
しかし、とパウロは続けている。

10:5 しかし、彼らの大部分は神のみこころにかなわず、荒野で滅ぼされました。

そうやって、神さまに導かれていたはずのイスラエルの民は、そのほとんどが約束の地にたどり着くことなく、40年間荒野でさ迷うことになり、滅ぼされてしまった。
ここに、私たちは危機感を覚える必要がある。

10:6 これらのことは、私たちを戒める実例として起こったのです。彼らが貪ったように、私たちが悪を貪ることのないようにするためです。

コリントのクリスチャンは、みんな福音を受け取り、洗礼を受け、み言葉を読み、聖霊を受けた人々だったはずだ。
しかし、全てを経験していたはずのイスラエルの民で、約束の地に入ることが許されたのはヨシュアとカレブだけ、後は荒野で生まれた子どもたちだけだった。
「あなたたちコリントのクリスチャンたちも、彼らと同じ道を辿ってはいないか?」これこそ、パウロが彼らに伝えたかったことである。

そして、それは私たちにも向けられている教訓であることを、私たちも忘れてはならない。
救いを手にしていながら、神さまが導こうとしている場所にたどり着けないという悲しいことにならないようにしよう。

③ どうすればいいのか?
それでは、私たちはどうすれば良いのか?
第一に、イスラエルの人々が金の仔牛を崇めたように、偶像崇拝を避けることである。
偶像崇拝とは、つまり私たちが神さまに自分の願いをかなえさせようとすること。
そのために、人々は自分で神の形を作り、それを自分の神とした。
私たちは、全ての主権が神さまにあることを忘れてはならない。

第二に、淫らなことを行わないこと。
イスラエルの人々は、異教の女たちが罠となって神さまから離れてしまった。
恋愛が最も価値のあるものであるかのように扱われている現代、これもまた、男女を問わず、私たちにとっても大きな罠となりうる問題である。

第三に、主を試みないこと。
ここでは、人々が蛇に殺されたことが記されているので、民数記にあった青銅の蛇を掲げる話について触れられていることが分かる。
この時のイスラエルの問題は、アラドとの戦いに勝利させてくださったにも関わらず、目の前の問題に対しては神さまを信頼しなかったこと。
私たちも、主を信頼しないなら、主を試みるようなことになるかもしれない。

第四に、不平を言わないこと。
イスラエルの一番の問題はここにあり、彼らは常に不平不満を口にしていた。
彼らが40年もの間荒野でさ迷うことになったのは、彼らのこの性質があったから。

さて、ここでパウロが話しているのは、クリスチャンが救いを失うという話ではないかもしれない。
しかし、このような信仰的な問題が私たちの中にあるなら、それは私たちの生き方に関わってくる。
神さまが私たちに用意してくださっている祝福を味わうことができないなら、それは何と残念なことだろう。
パウロはこのように警告している。

10:11 これらのことが彼らに起keこったのは、戒めのためであり、それが書かれたのは、世の終わりに臨んでいる私たちへの教訓とするためです。
10:12 ですから、立っていると思う者は、倒れないように気をつけなさい。

「クリスチャンだから大丈夫」と油断してはならない。
神さまとの関係が繋がっても、私たちが従おうとしないなら、私たちは結局間違った方向に進んでしまう者なのだから。
すでに始まっている神の国を体験するために、いつでも神に聞き従って行く者でありたいものだ。