Ⅰコリント10:13-14 Ⅰコリント21『試練からの脱出』 2022/12/18 けんたろ牧師

1コリント 10:13-14
10:13 あなたがたが経験した試練はみな、人の知らないものではありません。神は真実な方です。あなたがたを耐えられない試練にあわせることはなさいません。むしろ、耐えられるように、試練とともに脱出の道も備えていてくださいます。
10:14 ですから、私の愛する者たちよ、偶像礼拝を避けなさい。

クリスチャンたちの間で起こっていた分裂の問題と向き合うために書かれたコリント人への手紙第一。
その後話題は、コリントのクリスチャンたちが抱える現実的な罪や問題に移っていった。

前回は、イスラエルがエジプトを脱出した時の話を中心に、救いを受け取っていても、神さまとともに歩もうとしないなら神の国に入ることができないという衝撃的な話。
今回はそれに繋がる重要な言葉なので、しっかり読み取っていきたい。

① 試練とは苦難のことではない
今日の聖書箇所は、聖書の中でももっとも有名な言葉のひとつ。
これは、クリスチャンではない人でも知っていて、「私たちが体験する苦難は、全て乗り越えられるものである。神は乗り越えられない試練を与えないからだ」という意味として理解されている。

大変な状況を乗り越えようとしている時には、「耐えられない試練はない」という言葉が慰めになる事もあるだろう。
しかし、到底耐えられそうにないような状況で「耐えられない試練はない」と言われたら、何の希望も失ってしまうのではないだろうか。

ここで書かれている「試練」とは、私たちが経験する「苦難」のことではない。
同じコリントの人々に宛てた手紙の中で、パウロはこのように書いている。

IIコリント 1:8 兄弟たち。アジアで起こった私たちの苦難について、あなたがたに知らずにいてほしくありません。私たちは、非常に激しい、耐えられないほどの圧迫を受け、生きる望みさえ失うほどでした。
1:9 実際、私たちは死刑の宣告を受けた思いでした。それは、私たちが自分自身に頼らず、死者をよみがえらせてくださる神に頼る者となるためだったのです。

② 試練とは何か
では、ここで言われている「試練」とは何を表わしているのだろうか?
それを理解するためには、これまでの話を振り返る必要がある。
特に10章、つまり前回の話がここにかかっている。

聖書の言葉は、1節だけを切り抜いて、自分の文化や状況に合わせて理解しようとすると間違えて解釈してしまうことがあるが、この節もまさにその典型と言っていい1節だろう。

前回の話は、冒頭で話したように、救いを受け取っていても、神さまとともに歩もうとしないなら神の国に入ることができないという衝撃的な話だった。
そして、そうならないために、パウロはいくつかのことに気をつけるようにと話している。

第一に、偶像崇拝を避けること。
第二に、淫らなことを行わないこと。
第三に、主を試みないこと。
第四に、不平を言わないこと。

の4つだ。
しかし、その4つを守ることができず、多くのイスラエルの人々が神の国の素晴らしさを味わうことができずに死んでしまった。
そこに繋がっているのが、この有名な聖書箇所なのである。

10:13 あなたがたが経験した試練はみな、人の知らないものではありません。神は真実な方です。あなたがたを耐えられない試練にあわせることはなさいません。むしろ、耐えられるように、試練とともに脱出の道も備えていてくださいます。

③ 脱出の道
私たちには、神さまに自分の願いをかなえさせたいと思う欲望がある。
思い通りにいかないと幸せではないと思い、神さまを自分の願いの内側に閉じ込めてしまいたくなる誘惑があるのではないだろうか?

私たちは、神さまよりも目先の欲望を手にしたいと感じることがある。
それをすれば祝福を失ってしまうという場面でも、神さま以外のものを求めてしまう傾向があるのではないだろうか?

私たちは、主を信頼することができず、自分の道を進みたくなることがある。
そして、神さまの愛を試みたくなってしまうことがあるのではないだろうか?

私たちは、不平不満を言いたくなることがある。
自分の思い通りにいかず、神さまに会う前の方が良かったのではないかとついつい考えてしまうようなことがあるのではないだろうか?

かつてのイスラエルの人々は、そこに陥ってしまった。
エジプトから脱出した時だけでなく、何度も何度も同じ間違いを繰り返した。
コリントの人々も、同じ道を辿ろうとしていた。
そして、同じような傾向を、私たちも持ってしまっている。
それこそが、ここで言われている「試練」のことだ。

私たちはこのような誘惑に絶えずさらされているように思う。
しかし、神さまは真実な方であって、私たちを耐えられないような試練に合わせることはない。
そこには、脱出の道も用意してくださっているとパウロは言うのだ。

パウロのこの言葉は、第一に、誘惑があった時に乗ってしまうのは当たり前のことではないという視点を与えてくれる。
「○○なんだから仕方がない」ということではない
そこには敵の罠が合って、私たちを神さまから引き離そうとしている。
必要に応じて、私たちはその誘惑に抗う必要がある。

第二に、そこには脱出の道も用意されているということ。
それは、祈ることもかもしれない。
聖書の言葉を省みることなのかもしれないし、信頼できる兄弟姉妹に相談することかもしれない。
そのような中でも私たちは誘惑を撥ね退け、神さまに立ち返り、その導きに従って、神の国に生きることができるのだ。

横道に逸れる誘惑を感じること自体を恥じる必要はない。
それは、誰もが経験してきたことなのだから。
しかし、だからこそ私たちは神さまに立ち返り、神の国に入っていこうではないか。
本当の祝福は、誘惑の先にではなく、神の国の中にあるのだから。