ルカ1:26-33 クリスマス2022 『おめでとう恵まれた方』 2022/12/25 けんたろ牧師

ルカ1:26-33
ルカ 1:26 さて、その六か月目に、御使いガブリエルが神から遣わされて、ガリラヤのナザレという町の一人の処女のところに来た。
1:27 この処女は、ダビデの家系のヨセフという人のいいなずけで、名をマリアといった。
1:28 御使いは入って来ると、マリアに言った。「おめでとう、恵まれた方。主があなたとともにおられます。」
1:29 しかし、マリアはこのことばにひどく戸惑って、これはいったい何のあいさつかと考え込んだ。
1:30 すると、御使いは彼女に言った。「恐れることはありません、マリア。あなたは神から恵みを受けたのです。
1:31 見なさい。あなたは身ごもって、男の子を産みます。その名をイエスとつけなさい。
1:32 その子は大いなる者となり、いと高き方の子と呼ばれます。また神である主は、彼にその父ダビデの王位をお与えになります。
1:33 彼はとこしえにヤコブの家を治め、その支配に終わりはありません。」

 

これは、「受胎告知」と呼ばれて、多くの画家たちが絵のモチーフにもした有名な聖書箇所。クリスマスに読まれることも多い。
処女マリアのもとに、御使いガブリエルが訪れ、神の子を宿していることを告げられた時の話し。

ときどき、マリアが処女であったことが話題にされ、だから清いとか清くないということが語られることがある。
ユダヤ人の価値観の中にそういう考え方はあったので、確かにそういう面もあるだろうとは思うけど、神さまの視点から考えた時、たぶんそれはそれほど重要なことではない。
神さまが、聖くないものから聖いものを生み出せることは、イエスさまの家系図を見れば一目瞭然である。

大切なのは、それが「救い主のしるし」として預言されていたということ。
処女が懐妊するという、本来ならあり得ないことが起こる。
それこそが、救い主の誕生のしるしだと約束されていたからこそ、マリアが処女であったということが大切なことだったのだ。

イザ 7:14 それゆえ、主は自ら、あなたがたに一つのしるしを与えられる。見よ、処女が身ごもっている。そして男の子を産み、その名をインマヌエルと呼ぶ。

インマヌエルとは、「主はともにおられる」という意味の言葉。
救い主にはイエス(イェシュア)という名がつけられたが、彼のキリストとしての生涯を通して、人々は「主がともにおられる」ことを体験した。

① 神との出会い
しかし、神がともにいるということは、ユダヤ人にとっては本来恐怖を表わす出来事だった。
神は、絶対的な聖さと正しさをもった方なので、その前に出れば裁きを受けないで済む者など誰もいなかったから。

祭りの時に間違った火を捧げたアロンの子たちも、契約の箱を正しい運び方で運ばなかったウザも、それで命を落とした。

士師記 13:22 マノアは妻に言った。「私たちは必ず死ぬ。神を見たのだから。」

サムソンを身ごもった時に現れた主の使いを見たときに、母マノアはこのように言い、御使いを見たイザヤも同じように言った。

イザヤ 6:5 私は言った。「ああ、私は滅んでしまう。この私は唇の汚れた者で、唇の汚れた民の間に住んでいる。しかも、万軍の【主】である王をこの目で見たのだから。」

これが、神を目の当たりにした時の人々の反応なのだ。

② マリアの反応
御使いが現れ、「あなたは神の子を宿した」と言われたマリアも、恐れと戸惑いを感じたようだ。
しかし、マリアが御使いに発した言葉は、意外と冷静なものだった。

ルカ 1:34 マリアは御使いに言った。「どうしてそのようなことが起こるのでしょう。私は男の人を知りませんのに。」

当時のユダヤ人女性は14~15才で結婚することが多かったことから、この時のマリアもそれくらいの年齢だったのではないかと推測されるが、どうやって子供が生まれるかという知識もちゃんと持っていたと思われる。
それに対する御使いの返事は、理性的でとてもシンプルなものだった。

ルカ 1:35 御使いは彼女に答えた。「聖霊があなたの上に臨み、いと高き方の力があなたをおおいます。それゆえ、生まれる子は聖なる者、神の子と呼ばれます。
1:36 見なさい。あなたの親類のエリサベツ、あの人もあの年になって男の子を宿しています。不妊と言われていた人なのに、今はもう六か月です。
1:37 神にとって不可能なことは何もありません。」

③ おことばどおり、この身になりますように
もし、私たちがマリアの立場だったら、これを聞いて、どれくらい納得することができるだろう?
あまりに突拍子もない話で、パニックに陥って受け入れることができないかもしれない。
胡散臭い話だと思って、受け入れようとはしないかもしれない。
ガブリエルに対して質問攻めにして、納得がいくまで信じようとはしないかもしれない。
しかし、マリアの答えはこのようなものだった。

ルカ 1:38 マリアは言った。「ご覧ください。私は主のはしためです。どうぞ、あなたのおことばどおり、この身になりますように。」すると、御使いは彼女から去って行った。

マリアは救い主の母となった。
それは、マリアが私たちとは違う素晴らしい人間だったからだと考えることもできる。
でも、母になった後のマリアの反応を見ていると、マリアは何も特別なところはなく、普通の人だったことがわかる。
素晴らしかったのは、マリアが子どもように素直に受け入れたということだ。
そして、私たちにもまた、このような素直な心で受け入れることが求められている。

マルコ 9:37 「だれでも、このような子どもたちの一人を、わたしの名のゆえに受け入れる人は、わたしを受け入れるのです。また、だれでもわたしを受け入れる人は、わたしではなく、わたしを遣わされた方を受け入れるのです。」

マリアが体験したことは、その後全ての人々に起こったことの先駆けでしかない。
ある時、私たちの元にも主から遣わされた使いが来てこのように語ったのだ。
「おめでとう、恵まれた方。主があなたとともにおられます。あなたもイエスさまとともに歩み始めることができますよ。」

私たちは、それに対してどのように反応しただろう?
胡散臭いと耳を傾けず、去って行く人たちもいた。
自分にはムリだと、他人ごとにしてしまう人たちもいた。
しかし、その言葉を受け入れた人々は、お腹に赤子を宿す代わりに、聖霊を宿し、主とともにいることを日々体験しながら生きていくことができるのだ。

未だ受け入れていない人がいるなら、子どものように素直な心で受け入れて見て欲しい。
恐れを抱く気持ちはわかる。
理性的に理解することができず、全てを納得するまで待ちたい気持ちもわかる。
でも、恐れを感じなくなったり、全てを理解できるようになるということはないだろう。
だからこそ私たちには、子どものように素直な心が必要なのだから。

すでに救いを受け取った私たちは、今度はガブリエルの立場となって欲しい。
そして、一人でも多くの人たちに「おめでとう、恵まれた方」と、良い知らせを伝えるのだ。