Ⅰコリント10:14-22 Ⅰコリント22『神の奥義』2023/01/01 けんたろ牧師

1コリント 10:14-22
10:14 ですから、私の愛する者たちよ、偶像礼拝を避けなさい。
10:15 私は賢い人たちに話すように話します。私の言うことを判断してください。
10:16 私たちが神をほめたたえる賛美の杯は、キリストの血にあずかることではありませんか。私たちが裂くパンは、キリストのからだにあずかることではありませんか。
10:17 パンは一つですから、私たちは大勢いても、一つのからだです。皆がともに一つのパンを食べるのですから。
10:18 肉によるイスラエルのことを考えてみなさい。ささげ物を食する者は、祭壇の交わりにあずかることになるのではありませんか。
10:19 私は何を言おうとしているのでしょうか。偶像に献げた肉に何か意味があるとか、偶像に何か意味があるとか、言おうとしているのでしょうか。
10:20 むしろ、彼らが献げる物は、神にではなくて悪霊に献げられている、と言っているのです。私は、あなたがたに悪霊と交わる者になってもらいたくありません。
10:21 あなたがたは、主の杯を飲みながら、悪霊の杯を飲むことはできません。主の食卓にあずかりながら、悪霊の食卓にあずかることはできません。
10:22 それとも、私たちは主のねたみを引き起こすつもりなのですか。私たちは主よりも強い者なのですか。

コリント人への手紙第一は、クリスチャンたちの間で起こっていた分裂の問題と向き合うためにパウロによって書かれた。
ある者はペテロ派だと言い、ある者はアポロ派だと言い、そしてある者はパウロ派だと名乗って、互いに反目し合っていたのである。
コリントの教会は、分裂だけでなく、様々な問題を抱えていた。
彼らは神に従うと言いながら罪を重ね、権力に縛られていた。
彼らの最大の問題は、偶像崇拝である。

前回のメッセージでは、偶像崇拝の誘惑があるのは仕方がないけれど、私たちはそこから離れなければならない。
そして、神さまはそのための力と、脱出の道を備えて下さっているという話をした。
今日は、「だから、偶像崇拝を避けなさい」というところから始まる。

① 一体となること
パウロが、「これは賢い人達に話すように話している」というだけあって、ここに書かれていることは少し難しいかもしれない。
パウロはこのように書いている。

10:16 私たちが神をほめたたえる賛美の杯は、キリストの血にあずかることではありませんか。私たちが裂くパンは、キリストのからだにあずかることではありませんか。
10:17 パンは一つですから、私たちは大勢いても、一つのからだです。皆がともに一つのパンを食べるのですから。

これが、聖餐式のことについて話していることは分るだろうと思う。
聖餐式が、ここで何の関係があるのだろう?
聖餐式で表されていることの大切なポイントの一つは、私たちが一体だということである。

私たちは、キリストの血を表わすワインを分けて共に飲む。
また、キリストの体を表わすパンを裂いて、それぞれに配っていただく。
それを通して、私たちがキリストと一体であり、また他の体の部分と合わさることが象徴されている。
私たちは、キリストとも、また他のクリスチャンとも一体なのだ。
それが、聖餐の中に表されている神の奥義である。

② 妻と夫が一体となる
「一体となる」というこの奥義については、創世記の中から記されていた。

創世記 2:24 それゆえ、男は父と母を離れ、その妻と結ばれ、ふたりは一体となるのである。

これは、結婚式の時によく読まれる箇所であり、カトリックでも「結婚の秘跡」という呼ばれ方がされる話でもある。
しかし、これは単に男女の結婚だけを表わしているものではない。
パウロはこのことに関して、このように解説している。

エペソ 5:31 「それゆえ、男は父と母を離れ、その妻と結ばれ、ふたりは一体となるのである。」
5:32 この奥義は偉大です。私は、キリストと教会を指して言っているのです。

つまり、キリストと私たちが一体となるということが、聖書の中にずっと記されていた奥義であり、イエスさまを通してそれが実現したのである。
では、一体となるとはどういうことか?

イエスさまと父なる神はまさに一体だった。
「父によらず私が話すことは何もない」とイエスさまは言い、「私を見たものは父を見たのです」とも言っている。
イエスさまはいつでも父なる神さまの意思を知り、心を求め、それに従っていた。
私たちがキリストと一体となるということは、それと同じことを意味している。
私たちがキリストと心を一つにし、キリストの心が私たちの心となるということだ。

人々はイエスさまの名によって癒しを行い、イエスさまの名によって悪霊を追い出した。
そして、イエスさま自身もまた、「わたしの名によって求めるものは与えられる」と話している。
ここで表されているのも、私たちが呪文のようにイエスさまの名まえを使ったり、勝手に名まえを借用することではなく、私たちがキリストと一体になることを意味している。
そして、すべてをまとめる言葉のように、パウロはこう言っている。

Ⅱコリ 3:18 私たちはみな、覆いを取り除かれた顔に、鏡のように主の栄光を映しつつ、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられていきます。これはまさに、御霊なる主の働きによるのです。

キリストと一体になることなしに、私たちがキリストの似姿へと変わっていくことはない。

③ 偶像と一体になる
それを踏まえた上で、偶像崇拝の問題は何なのだろう?

10:18 肉によるイスラエルのことを考えてみなさい。ささげ物を食する者は、祭壇の交わりにあずかることになるのではありませんか。
10:19 私は何を言おうとしているのでしょうか。偶像に献げた肉に何か意味があるとか、偶像に何か意味があるとか、言おうとしているのでしょうか。
10:20 むしろ、彼らが献げる物は、神にではなくて悪霊に献げられている、と言っているのです。私は、あなたがたに悪霊と交わる者になってもらいたくありません。

パウロは前の章で、偶像の神など存在しないと明言している
ならば、「偶像の神に肉を捧げても意味がない」と言えそうだけど、そうではない。
私たちが神さまではなく、神ではない偶像に向かい、それを崇めるなら、それは私たちを神さまから引き離そうとしている悪霊を利することになるということ。
つまり偶像崇拝は、私たちが神さまではなく、偶像と一体となり、さらには悪霊と一体となることに繋がるものなのだという警鐘を、パウロは鳴らしているのだ。

私たちは、誰と一体になりたいのだろう?
神さまとだろうか、それとも偶像、悪霊と一体になりたいのだろうか?
そのことを私たちはもう一度考える必要がある。

ただし、現代の偶像崇拝は聖書の時代とは少し違う。
多くの場合、私たちが偶像にしてしまうのは、思想やイデオロギー。
政治的、宗教的立ち場というものも、偶像になる。
「キリスト教」という宗教が偶像になっていないだろうか?
「○○派」という教派や神学が偶像になっていないだろうか?
「○○先生」という牧師やリーダーが偶像になっていないだろうか?
それらは全て、私たちを神に近づけているように錯覚させながら、むしろ遠ざけてしまうもの。
私たちが本当に一体とならなければならないのは、聖霊であり、キリストであり、父なる神さまなのだということを、私たちは決して忘れてはならない。