Ⅰコリント10:23-33 Ⅰコリント23『益になることを求める』2023/01/08 けんたろ牧師
1コリント 10:23-33
10:23 「すべてのことが許されている」と言いますが、すべてのことが益になるわけではありません。「すべてのことが許されている」と言いますが、すべてのことが人を育てるとはかぎりません。
10:24 だれでも、自分の利益を求めず、ほかの人の利益を求めなさい。
10:25 市場で売っている肉はどれでも、良心の問題を問うことをせずに食べなさい。
10:26 地とそこに満ちているものは、主のものだからです。
10:27 あなたがたが、信仰のないだれかに招待されて、そこに行きたいと思うときには、自分の前に出される物はどれも、良心の問題を問うことをせずに食べなさい。
10:28 しかし、だれかがあなたがたに「これは偶像に献げた肉です」と言うなら、そう知らせてくれた人のため、また良心のために、食べてはいけません。
10:29 良心と言っているのは、あなた自身の良心ではなく、知らせてくれた人の良心です。私の自由が、どうしてほかの人の良心によってさばかれるでしょうか。
10:30 もし私が感謝して食べるなら、どうして私が感謝する物のために悪く言われるのでしょうか。
10:31 こういうわけで、あなたがたは、食べるにも飲むにも、何をするにも、すべて神の栄光を現すためにしなさい。
10:32 ユダヤ人にも、ギリシア人にも、神の教会にも、つまずきを与えない者になりなさい。
10:33 私も、人々が救われるために、自分の利益ではなく多くの人々の利益を求め、すべてのことですべての人を喜ばせようと努めているのです。
コリント人への手紙第一は、クリスチャンたちの間で起こっていた分裂の問題と向き合うためにパウロによって書かれた。
ある者はペテロ派だと言い、ある者はアポロ派だと言い、そしてある者はパウロ派だと名乗って、互いに反目し合っていたのである。
コリントの教会は、分裂だけでなく、様々な問題を抱えていた。
10章でテーマとして挙げられているのは、偶像崇拝。
偶像崇拝の問題は、第一に神を自分の願いを叶えるために従わせようとしていること。
第二に、真の神以外のものに心を向けることで、神から離れてしまうことである。
これらのことが、結果的に私たちを悪霊と繋がらせてしまうのだとパウロは言った。
そのことを踏まえた上で、話題は「偶像に捧げた肉を食べること」に戻っていく。
私たちは、クリスチャンとしてするべきことと、するべきではないことをどのように見分け、判断して意見場良いのだろうか?
① すべてのことが益となるわけではない
偶像を崇めることがよくないことはよくわかった。
しかし、パウロ自身が言っている通り、偶像の神は実際には存在しているわけではない。
ならば、偶像に捧げたものを食べることに関しては、問題がないのではないか?
パウロは、そのことについてこのように書いている。
10:23 「すべてのことが許されている」と言いますが、すべてのことが益になるわけではありません。「すべてのことが許されている」と言いますが、すべてのことが人を育てるとはかぎりません。
10:24 だれでも、自分の利益を求めず、ほかの人の利益を求めなさい。
私たちクリスチャンは、自由な存在である。
律法を通して示されていた一つ一つのこともイエスさまによって成就し、私たちはそれに捕らわれる必要もない。
偶像に関しても同じで、それは確かにその通りである。
しかし、「何をしてもいい」ということと、「それが益になることかどうか」は別の話し。
私たちは、「悪くない」ことではなく、「良いことを」しかも、「自分にとって良いこと」ではなく、「他の人にとって良いこと」を求めなさいと聖書は教えている。
これは、私たちクリスチャンにとって大切な判断の基準となり、行動の指針となる。
私たちは、目の前の物事が、人の役に立っているかどうか判断してもいいのだ。
② 良心が優先
例えば、市場に打っている肉が、実は偶像に献げられた肉だったりするかもしれない。
しかし、そんなことを気にする必要は、私たちにはない。
私たちは別に、偶像崇拝など行おうとは思ってないからだ。
しかし、それを販売したり、振舞っている人が、「この肉は○○という神々に献げた肉なんですよ」と伝えたとしたらどうだろう?
10:27 あなたがたが、信仰のないだれかに招待されて、そこに行きたいと思うときには、自分の前に出される物はどれも、良心の問題を問うことをせずに食べなさい。
10:28 しかし、だれかがあなたがたに「これは偶像に献げた肉です」と言うなら、そう知らせてくれた人のため、また良心のために、食べてはいけません。
その肉は食べてはならないとパウロは言う。
でも、ここでパウロが言いたいのは、「知らなかったらいいけど、知ってしまったらだめ」という話ではない。
10:29 良心と言っているのは、あなた自身の良心ではなく、知らせてくれた人の良心です。私の自由が、どうしてほかの人の良心によってさばかれるでしょうか。
偶像に捧げた肉を食べるかどうかは、その人の良心によること。
実際に偶像を崇拝してしまっているならまだしも、献げられた肉をどうするかなんて自分で考えればいい。
自分で決めたことなのであれば、それは誰かにとやかく言われるようなことではない。
しかし、誰かが、「これは偶像に捧げたものだ」とわざわざ知らせてくれたなら、知らせてくれた人の良心のために食べるべきではないということなのだ。
そもそも、その人はどうしてそのことを伝えたのだろう?
それは、私たちが偶像崇拝を喜ばないクリスチャンだと知っているからではないだろうか。
そうしてわざわざ教えてくれたにもかかわらず、私たちが平気でその肉を食べるなら、私たちはその人たちの良心を踏みにじることになってしまうだろう。
それだけではない。
私たちのその行動は、その人の神観や、信仰のあり方にも影響を及ぼしてしまだろう。
神への信仰なんて、割とどうでもいいものなのだと思ってしまうのではないだろうか?
あるいは、神を侮っても問題はないのだと感じてしまうのではないだろうか?
③ すべてのことを神の栄光のために
パウロはこのように続けている。
10:31 こういうわけで、あなたがたは、食べるにも飲むにも、何をするにも、すべて神の栄光を現すためにしなさい。
「神の栄光を現す」というのは、私たちの言動を通して、「神さまの素晴らしさが表わされるようになる」ということ。
その目的は、神さまの素晴らしさが、一人でも多くの人たちに伝わるためだ。
私たちは、直接聖書のことを話し、福音を伝えなくても、神の栄光を現すことができる。
私たちは、仕事を通して、子育てを通して、食事を振舞うことを通して、一緒に遊びに行くことを通して、神さまの栄光を現すことができる。
私たちは、自分の弱さ、無力さをさらけ出しながら、神さまの栄光を現すことができる。
私たちの言動は、神さまの栄光を現すものになっているだろうか?
私たち自身の素晴らしさを伝えようとしてしまっていないだろうか?
私たちの信仰の素晴らしさを伝えようとしていないだろうか?
あるいは、私たちのグループの素晴らしさを伝えてしまっていないだろうか?
私たちの栄光を現すのではない、私たちは、神の栄光を現したいのだ。
そして、神さまの素晴らしさを知った人々が、神を求め、神を神とし、神に従う者になってくれたら、どれほど素晴らしいことだろうか?
皆さんにとってこの一年が、そのような年となりますように、心から祈ります。