Ⅰコリント11:1-16 Ⅰコリント24『かぶり物は必要ですか?』 2023/01/15 けんたろ牧師

1コリント 11:1-16
11:1 私がキリストに倣う者であるように、あなたがたも私に倣う者でありなさい。
11:2 さて、私はあなたがたをほめたいと思います。あなたがたは、すべての点で私を覚え、私があなたがたに伝えたとおりに、伝えられた教えを堅く守っているからです。
11:3 しかし、あなたがたに次のことを知ってほしいのです。すべての男のかしらはキリストであり、女のかしらは男であり、キリストのかしらは神です。
11:4 男はだれでも祈りや預言をするとき、頭をおおっていたら、自分の頭を辱めることになります。
11:5 しかし、女はだれでも祈りや預言をするとき、頭にかぶり物を着けていなかったら、自分の頭を辱めることになります。それは頭を剃っているのと全く同じことなのです。
11:6 女は、かぶり物を着けないのなら、髪も切ってしまいなさい。髪を切り、頭を剃ることが女として恥ずかしいことなら、かぶり物を着けなさい。
11:7 男は神のかたちであり、神の栄光の現れなので、頭にかぶり物を着けるべきではありません。一方、女は男の栄光の現れです。
11:8 男が女から出たのではなく、女が男から出たからです。
11:9 また、男が女のために造られたのではなく、女が男のために造られたからです。
11:10 それゆえ、女は御使いたちのため、頭に権威のしるしをかぶるべきです。
11:11 とはいえ、主にあっては、女は男なしにあるものではなく、男も女なしにあるものではありません。
11:12 女が男から出たのと同様に、男も女によって生まれるのだからです。しかし、すべては神から出ています。
11:13 あなたがたは自分自身で判断しなさい。女が何もかぶらないで神に祈るのは、ふさわしいことでしょうか。
11:14 自然そのものが、あなたがたにこう教えていないでしょうか。男が長い髪をしていたら、それは彼にとって恥ずかしいことであり、
11:15 女が長い髪をしていたら、それは彼女にとっては栄誉なのです。なぜなら、髪はかぶり物として女に与えられているからです。
11:16 たとえ、だれかがこのことに異議を唱えたくても、そのような習慣は私たちにはなく、神の諸教会にもありません。

コリント人への手紙第一は、クリスチャンたちの間で起こっていた分裂の問題と向き合うためにパウロによって書かれた。
ある者はペテロ派だと言い、ある者はアポロ派だと言い、そしてある者はパウロ派だと名乗って、互いに反目し合っていたのである。

10章では、偶像崇拝に関していろいろな考察をしてきた。
11章では、またトピックが変わっていくことになる。

① パウロに倣う
11章はなかなか刺激的な言葉から始まっている。

11:1 私がキリストに倣う者であるように、あなたがたも私に倣う者でありなさい。

これは、10章までに書かれていた、パウロの行動に関すること。
パウロは人を愛するために自分の思いや価値観を脇に置き、神さまの愛を伝えるためにはどんなことでもした。
パウロは私たちに、「あなたがたも私に倣う者でありなさい」と言うのだ。

自信を持ってこのように言える人がどれくらいいるだろうか?
しかし、神さまに心から従うというのは、こういうことを言うのだろうと思う。
私たちも、このように言えるような信仰を持ちたいものである。

② 女のかぶり物
さて、今回の話しの中心となっている「かぶりもの」とはどのようなもので、話のポイントはっどこにあるのだろう?

このころ、コリントの教会では礼拝の時にかぶりものをしない女性が増えていたようだ。
とは言っても、私たちは女性がかぶり物をするような社会で生きていないため、この話はなかなかぴんと来ない。

確認しておく必要があるのは、当時はユダヤ人もギリシア人も、女性はかぶり物をするのが文化的な慣習だったということ。
かぶり物に関しては特に、律法などには何も記されていない。
律法に書かれていたことが再解釈されたということですらなく、他の箇所にも特に記載されていない。

他の手紙でも特に記述がないことから、女性が礼拝の時にかぶり物をしないという問題は、コリント独自の問題だったようである。
他の地域ではかぶり物をしないような女性はいなかったということなのか、他の地域ではかぶり物をしなくても、それほど問題にならなかったかということだろう。

そう考えて調べてみると、コリントでは、愛の女神アフロディーテの神殿があり、その信仰や神殿娼婦の存在と関係があったことがわかってきた。
どうやら、神殿娼婦たちは、髪の毛を短く切っていたようだ。
すると、ここでもいくつかの可能性を考えることができる。

 ① 元神殿娼婦たちが教会に加わっており、彼女たちの信仰が確立されるためにこのような話をする必要があった。
 ② 教会から神殿娼婦のように髪を切る女性たちが出てきたので、間違えられないようにする必要があった。
 ③ クリスチャン女性の中で、神殿娼婦をまねる女性たちが出てきた。

アフロディーテの神殿娼婦は結構昔からいただろうから、クリスチャンの女性がそれをまねるようになったというのは少し考えにくいだろう。
しかし、いずれにしても、女性はかぶり物をするようにという話には、コリントの教会の秩序を守りたいという目的があったように思う。

では、私たちはこの話をどのように適用したらいいのか?
聖書の中にいる以上全く無視するわけにはいかないものの、私たちも慌ててかぶり物を被るようにしようということにもならないだろう。
パウロがここで求めているのは、キリストの体が秩序を持って機能していくことなのだろうと思う。

③ かしらは男
パウロが守ろうとする秩序の中でも、特に大切なものがここでは記されている。
それは、男性が女性のかしらとされているということ。

11:3 しかし、あなたがたに次のことを知ってほしいのです。すべての男のかしらはキリストであり、女のかしらは男であり、キリストのかしらは神です。

現代は男女平等の社会なので、これを聞いて反感を持つ人もいるかもしれない。
でもこれは、女性が男性よりも劣っているという話ではないし、女性は男性に一方的に従うべきだと言っているわけでもない。
あるいは、男尊女卑的な、上下関係を表わしている話でもない。
男のかしらはキリストであり、女のかしらは男であり、キリストのかしらは神ですと書かれている。
キリストと神は同一であり、どちらが尊くてどちらが卑しいなどという話はない。
ここに記されているのは、役割の違いであり、それぞれが従順であることの大切さである。

もちろん、女性の中にもリーダーシップを発揮する人たちはいる。
神さまがリーダーシップを持った働きに就かせることもあるだろうし、そうであれば、それを妨げてはならないが、「男女平等であるべきである。従って、女性も男性の同人数のリーダーがいるべきである」という話にもならない。
大切なのは、私たちが常に、神さまに対して従順であるということ。

コリントへの手紙の中に記された「かぶり物」についての議論は、私たちが秩序を守って神さまに従うことの大切さを再確認させてくれるものに他ならない。
現代の日本で活動する私たちの間で、皆さんが「かぶり物」を被るか被らないかは皆さんの判断にお任せするが、本当に大切なのはその心の態度である。
私たちは、心から神さまをかしらとし、従順でいるだろうか?