Ⅰコリント11:17-34 Ⅰコリント25『主の晩餐にあずかるために』 2023/01/22 けんたろ牧師

1コリント 11:17-34
11:17 ところで、次のことを命じるにあたって、私はあなたがたをほめるわけにはいきません。あなたがたの集まりが益にならず、かえって害になっているからです。
11:18 まず第一に、あなたがたが教会に集まる際、あなたがたの間に分裂があると聞いています。ある程度は、そういうこともあろうかと思います。
11:19 実際、あなたがたの間で本当の信者が明らかにされるためには、分派が生じるのもやむを得ません。
11:20 しかし、そういうわけで、あなたがたが一緒に集まっても、主の晩餐を食べることにはなりません。
11:21 というのも、食事のとき、それぞれが我先にと自分の食事をするので、空腹な者もいれば、酔っている者もいるという始末だからです。
11:22 あなたがたには、食べたり飲んだりする家がないのですか。それとも、神の教会を軽んじて、貧しい人たちに恥ずかしい思いをさせたいのですか。私はあなたがたにどう言うべきでしょうか。ほめるべきでしょうか。このことでは、ほめるわけにはいきません。
11:23 私は主から受けたことを、あなたがたに伝えました。すなわち、主イエスは渡される夜、パンを取り、
11:24 感謝の祈りをささげた後それを裂き、こう言われました。「これはあなたがたのための、わたしのからだです。わたしを覚えて、これを行いなさい。」
11:25 食事の後、同じように杯を取って言われました。「この杯は、わたしの血による新しい契約です。飲むたびに、わたしを覚えて、これを行いなさい。」
11:26 ですから、あなたがたは、このパンを食べ、杯を飲むたびに、主が来られるまで主の死を告げ知らせるのです。
11:27 したがって、もし、ふさわしくない仕方でパンを食べ、主の杯を飲む者があれば、主のからだと血に対して罪を犯すことになります。
11:28 だれでも、自分自身を吟味して、そのうえでパンを食べ、杯を飲みなさい。
11:29 みからだをわきまえないで食べ、また飲む者は、自分自身に対するさばきを食べ、また飲むことになるのです。
11:30 あなたがたの中に弱い者や病人が多く、死んだ者たちもかなりいるのは、そのためです。
11:31 しかし、もし私たちが自分をわきまえるなら、さばかれることはありません。
11:32 私たちがさばかれるとすれば、それは、この世とともにさばきを下されることがないように、主によって懲らしめられる、ということなのです。
11:33 ですから、兄弟たち。食事に集まるときは、互いに待ち合わせなさい。
11:34 空腹な人は家で食べなさい。あなたがたが集まることによって、さばきを受けないようにするためです。このほかのことについては、私が行ったときに決めることにします。

今日の聖書箇所は、聖餐式の時によく読む箇所なので、聞き覚えがある方は多いと思う。
聖餐式とはどのようなものかということにおいて、教団や教会で様々なことが教えられている。
しかし、この箇所の理解は、聖餐式の意味ややりかたを改めて考えさせられる箇所である。

皆さんは、聖餐式をどのようなものとして教えられ、考えていただろうか?
このメッセージを通して、改めて主の晩餐について考える時としたい。

① キリスト教の聖餐式
多くの場合、キリスト教の聖餐式はこのようなものである。

・ 礼拝の中で礼典として執り行われる。
・ 教会員としてのしるしであり、それゆえに教会員のことは陪餐会員と呼ばれる。
・ パンとぶどう液を小分けにして、それが配られる。
・ 聖餐に与る前に自分自身の罪を吟味して、悔い改めを求められる。悔い改めていない罪があったり、クリスチャンでない者は聖餐に与ることができない。

特に最後のことに関しては、この聖書箇所が根拠とされている。

11:27 したがって、もし、ふさわしくない仕方でパンを食べ、主の杯を飲む者があれば、主のからだと血に対して罪を犯すことになります。
11:28 だれでも、自分自身を吟味して、そのうえでパンを食べ、杯を飲みなさい。
11:29 みからだをわきまえないで食べ、また飲む者は、自分自身に対するさばきを食べ、また飲むことになるのです。

僕自身もそのように教わって来たし、その様に考えていた時期もあった。
そのようなものとして、聖餐式をしたこともあると思う。
しかし、改めてこの箇所を読んでみると、この箇所はその様なことを意味しているのではないことが分かる。
どうも、キリスト教会の中で聖餐式のやり方や意味が定められ、それを基準にして聖書を解釈していたのではないだろうか?

特に、カトリック教会では今でもそうだが、聖餐の時に分けられるパンとぶどう液は、司祭の手と祈りによって文字通りそれはキリストの体になると教えられ、聖餐式のたびに私たちはキリストをいけにえとして罪を贖っていただくのだと理解されているようだ。
プロテスタントではその解釈を放棄したが、礼典としての部分はほとんどそのまま踏襲しているように思える。
しかし、主の晩餐とは本来そのようなものではない。

② 主の晩餐が意味すること
ここで出てくる主の晩餐についての言葉は、コリントの教会が抱えていた問題について言及する文脈の中で出てきた話である。
コリントの教会が抱えていた主な問題は、これまでも話してきたように分裂である。
前半には、誰を師とするかということでの分裂の問題について話されていたが、ここでの問題は、貧富の差から来る分裂である。

みんなで集まった時、金持ちたちはお腹がすくと勝手に食事を作らせて食べていたのである。
その傍らでは、食事を買うお金がない人たちが、何も食べないでそこで呆然としていた。
このような状況に問題があるというのが、パウロがここで話していることである。

その話の中で、パウロは主の晩餐について説明している。
ここでわかることは、第一に、主の晩餐とは儀式のことではなく、共に食事をすることだということ。
第二に、パンはキリストの体であることを思い出すためのものであり、私たちは一つだということがそのポイントである。
第三に、ぶどう酒は私たちの罪を贖うために流された血を思い出すためのものであり、私たちは古い肉的な価値観ではなく、新しい命に生きていることを思い出す機会だということ。

11:27 したがって、もし、ふさわしくない仕方でパンを食べ、主の杯を飲む者があれば、主のからだと血に対して罪を犯すことになります。

「ふさわしくない仕方」とは、貧しい人を省みずに自分勝手に食事をしている様のこと。
それは、イエスさまがこの晩餐を通して伝えようとしたことを蔑ろにし、侮辱する行為である。
「自分自身を吟味して」とは、それができていない自分を省みて、行動を正すべきだということ。
悔い改めの祈りをせずに聖餐に与ると裁きを受けるということがポイントではない。

③ 一つとなる
では、私たちはこれをどのように適用するべきだろうか?
何よりも、主の晩餐をカタチだけの空っぽな儀式にしてしまわないこと。
私たちが本当にその意味を理解し、実践しているかを省みること。
私たちが一つになれていないことに気づいたら、すぐに方向転換をする機会とすること。

私たちが一つになるために必要ことは何だろう?
それは、互いを見て、互いに合わせること…ではない。
それでは、私たちは人間を中心にし、人間の価値観に合わせ、人間的な集まりになっていくことだろう。

大切なのは、私たちがみんな主を見上げることだ。
私たちは、「主」のからだの一部なのであり、「主」の血によって罪を贖われたのだ。

私たちは、主を見上げようとしない人々と一つになることはできない。
背負っているくびきが違うのだから。
だからこそ、その方たちには福音を宣べ伝え、まずは主を知っていただくことから始める必要がある。

どうか、主を求める者であって欲しい。
そして、共に主を見上げていこうではないか。
一つとなるために。