Ⅰコリント12:1-11 Ⅰコリント26『一つの御霊』 2023/02/05 けんたろ牧師
1コリント 12:1-11
12:1 さて、兄弟たち。御霊の賜物については、私はあなたがたに知らずにいてほしくありません。
12:2 ご存じのとおり、あなたがたが異教徒であったときには、誘われるまま、ものを言えない偶像のところに引かれて行きました。
12:3 ですから、あなたがたに次のことを教えておきます。神の御霊によって語る者はだれも「イエスは、のろわれよ」と言うことはなく、また、聖霊によるのでなければ、だれも「イエスは主です」と言うことはできません。
12:4 さて、賜物はいろいろありますが、与える方は同じ御霊です。
12:5 奉仕はいろいろありますが、仕える相手は同じ主です。
12:6 働きはいろいろありますが、同じ神がすべての人の中で、すべての働きをなさいます。
12:7 皆の益となるために、一人ひとりに御霊の現れが与えられているのです。
12:8 ある人には御霊を通して知恵のことばが、ある人には同じ御霊によって知識のことばが与えられています。
12:9 ある人には同じ御霊によって信仰、ある人には同一の御霊によって癒やしの賜物、
12:10 ある人には奇跡を行う力、ある人には預言、ある人には霊を見分ける力、ある人には種々の異言、ある人には異言を解き明かす力が与えられています。
12:11 同じ一つの御霊がこれらすべてのことをなさるのであり、御霊は、みこころのままに、一人ひとりそれぞれに賜物を分け与えてくださるのです。
コリントの教会は、良いこともたくさん起こる中で、深刻な問題もたくさん抱えている教会だった。
その一番の問題となっていたのが分裂の問題。
その問題と向き合い、パウロが助けの手を差し伸べたのがこのコリントのクリスチャンたちに宛てられた第一の手紙だった。
コリントが抱えている様々な問題を取り上げながら、少しずつ「一致」という方向に向かわせる内容が含まれていたが、11章からはストレートに、また具体的にそのテーマを取り上げている。
11章では、主の晩餐を通して「一つとなる」ということの大切さを取り上げていた。
今回取り上げる12章の前半では、「御霊の賜物」を通して「一つである」というテーマを見ていこう。
① 御霊の賜物の見分け方
「御霊の賜物については、私はあなたがたに知らずにいてほしくありません」というパウロの言葉は、そのまま私たちにも語られている言葉だと思う。
異邦人が多いコリントのクリスチャンたちのために、パウロは御霊の賜物の見分け方について説明している。
この見分け方を知ることによって、私たちは「御霊の賜物」の本質的な部分についても知ることができる。
同じく異邦人が多い私たちにはとても助かる言葉である。
12:3 ですから、あなたがたに次のことを教えておきます。神の御霊によって語る者はだれも「イエスは、のろわれよ」と言うことはなく、また、聖霊によるのでなければ、だれも「イエスは主です」と言うことはできません。
才能や能力は、神さまを知らなくても、あるいは神さまと関係のない所でも発揮することができる。
しかし、御霊の賜物は、「イエスが主である」ということと密接に関わることであり、神さまとの関係なしには発揮することができないものなのである。
② いろいろな賜物、奉仕、働き
第2に、私たちクリスチャンには、いろいろな賜物があり、奉仕があり、働きがあることが記されている。
12:4 さて、賜物はいろいろありますが、与える方は同じ御霊です。
12:5 奉仕はいろいろありますが、仕える相手は同じ主です。
12:6 働きはいろいろありますが、同じ神がすべての人の中で、すべての働きをなさいます。
12:7 皆の益となるために、一人ひとりに御霊の現れが与えられているのです。
御霊の賜物とは、私たちが聖霊を受けたことによって得られるようになった特別な力。
私たちにはそれぞれに使命が与えられ、それに伴う能力や才能が与えられているが、これは、私たちが元々備えていた能力や才能とは異なる。
奉仕とは、クリスチャンとして神と人に仕えること。
私たちはクリスチャンとしてそのような勤めが与えられている。
日曜日の教会で順番に回ってくる仕事や、社会的な活動も奉仕になりうるかもしれないが、もっと広くとらえる方がいい。
私たちはいつでも主に仕え、人々に仕えることができる。
働きとは、賜物によってもたらされた活動の結果のこと。
同じ賜物を用いても、表面に現れる働きは変わることがある。
例えば、同じ「教える」という賜物を与えられていても、学校の教師と聖書の教師とでは働きが違う。
③ たくさんの賜物とひとつの御霊
三つ目に、御霊の賜物には色んな種類があり、奉仕には色んな種類があり、働きには色んな種類があるということ。
ここではいくつかの賜物について紹介されている。
12:8 ある人には御霊を通して知恵のことばが、ある人には同じ御霊によって知識のことばが与えられています。
12:9 ある人には同じ御霊によって信仰、ある人には同一の御霊によって癒やしの賜物、
12:10 ある人には奇跡を行う力、ある人には預言、ある人には霊を見分ける力、ある人には種々の異言、ある人には異言を解き明かす力が与えられています。
これが与えられる賜物の全てというわけではない。
他にも様々な御霊の賜物が考えられるが、全て人を建て上げ、助ける役割を果たすもの。
クリスチャンたちは、互いに神さまからの知恵や知識の言葉を分かち合い、御業が行われ、預言や異言の解き明かしを通して神さまからのメッセージが伝えられた。
私たちの中で、このような賜物は用いられているだろうか?
もしそうでないとしたらなぜだろう?
それは、「私たちにこのような賜物が与えられていないの」ではなく、私たちが普段からこのような賜物を用いていないからではないかと思う。
当時の教会の集まりは、後の時代に始まったような、礼拝堂に集まって司式に従って礼典を行い、歌い、祈り、説教を聴くというものではなく、互いに神さまからの賜物を分かち合い、実践する場だった。
用いなければ、賜物が与えられていてもそれが磨かれることもなく、宝の持ち腐れとなってしまう。
私たちは、もっとこのような賜物を用いて、互いに仕え合い、教え合うべきではないかと思う。
④ すべては一つの御霊から
最後に、今日のポイントの着地点は、全てが一つの御霊から始まるものだということ。
ここでこの話は、第一コリントの最初のテーマに繋がる。
みんな別々の賜物を持ち、別の奉仕に携わり、別の働きをしているが、その背後に働いている御霊は一つ。
同じ御霊によって全てのことが行われるのだから、私たちは互いを建てあげ合うことはあっても、引きずり下ろすようなことをしてはいけない。
12:4 さて、賜物はいろいろありますが、与える方は同じ御霊です。
12:5 奉仕はいろいろありますが、仕える相手は同じ主です。
12:6 働きはいろいろありますが、同じ神がすべての人の中で、すべての働きをなさいます。
そして、私たちがそれぞれに御霊に与り、一つとされるために必要なことはここでも一つ。
それは、一人の方である主に仕え、ともに神を見上げるということだ。
それを忘れて、働きだけ、奉仕だけ、賜物だけを見始めるなら、私たちはバラバラになって、争い、押し付け合い、裁き合いが始まる。
コリントにはそのような状況が起こっていたのだろう。
そして、私たちも、そのような危機がいつでも起こり得ることを忘れてはならない。