Ⅰコリント12:12-27 Ⅰコリント27『一つのキリストのからだ』2023/02/19 けんたろ

1コリント 12:12-27
12:12 ちょうど、からだが一つでも、多くの部分があり、からだの部分が多くても、一つのからだであるように、キリストもそれと同様です。
12:13 私たちはみな、ユダヤ人もギリシア人も、奴隷も自由人も、一つの御霊によってバプテスマを受けて、一つのからだとなりました。そして、みな一つの御霊を飲んだのです。
12:14 実際、からだはただ一つの部分からではなく、多くの部分から成っています。
12:15 たとえ足が「私は手ではないから、からだに属さない」と言ったとしても、それで、からだに属さなくなるわけではありません。
12:16 たとえ耳が「私は目ではないから、からだに属さない」と言ったとしても、それで、からだに属さなくなるわけではありません。
12:17 もし、からだ全体が目であったら、どこで聞くのでしょうか。もし、からだ全体が耳であったら、どこでにおいを嗅ぐのでしょうか。
12:18 しかし実際、神はみこころにしたがって、からだの中にそれぞれの部分を備えてくださいました。
12:19 もし全体がただ一つの部分だとしたら、からだはどこにあるのでしょうか。
12:20 しかし実際、部分は多くあり、からだは一つなのです。
12:21 目が手に向かって「あなたはいらない」と言うことはできないし、頭が足に向かって「あなたがたはいらない」と言うこともできません。
12:22 それどころか、からだの中でほかより弱く見える部分が、かえってなくてはならないのです。
2:23 また私たちは、からだの中で見栄えがほかより劣っていると思う部分を、見栄えをよくするものでおおいます。こうして、見苦しい部分はもっと良い格好になりますが、
12:24 格好の良い部分はその必要がありません。神は、劣ったところには、見栄えをよくするものを与えて、からだを組み合わせられました。
12:25 それは、からだの中に分裂がなく、各部分が互いのために、同じように配慮し合うためです。
12:26 一つの部分が苦しめば、すべての部分がともに苦しみ、一つの部分が尊ばれれば、すべての部分がともに喜ぶのです。
12:27 あなたがたはキリストのからだであって、一人ひとりはその部分です。

ペテロ派、アポロ派、パウロ派などに分かれて分裂の危機に面していたコリントの教会。
そんなコリントの人々にパウロが書いた手紙は、11章の辺りから結論へ、そしてクライマックスへと向かっていく。
第一に、主の晩餐でパンとぶどう酒を分かち合うこと。
これは、罪の赦しを象徴すると同時に、私たちが一つであることを思い出すためのしるしだった。
キリストの体を象徴する一つのパンを分け、一つのボトルから注いだぶどう酒を飲む。
これを行いながら心を一つにするという意志がないなら、主の晩餐は何の意味も成していない。
第二に、一つの御霊を受けていること。
私たちの賜物、奉仕、働きは様々だが、全ては一つの御霊によって受けている。
性質や行動の違いだけで判断することはできない。
そして今回は、私たちは一つのキリストのからだであるという話になっていく。

① 一つだから違いが必要
私たち教会は、キリストのからだであるということを通して、パウロは何を伝えようとしたのだろう?
それは、私たちは一つでありながらも、別々の役割を持っているのだということ。
多くのクリスチャンが誤解し、間違っている信仰生活がここで訂正されている。
画一化することが私たちに求められることではないということだ。

12:12 ちょうど、からだが一つでも、多くの部分があり、からだの部分が多くても、一つのからだであるように、キリストもそれと同様です。

私たちにはそれぞれ凸凹があり、元から同じ規格ではない。
この世界の価値観は、そのデコボコを削って画一的にしようとする。
特に産業革命以降の社会は、工場で作業をさせるためにそのような教育をしてきた。
教会でも、その価値観を引きずって、型にはめるような信仰生活を求める傾向がある。
でもそれは、それぞれがキリストの体の部分だという聖書の教えに反している。
みんなを手にしようとしたり、目にしようとする行為に他ならない。
私たちは、本来別のものとして創造されているのだということを、私たちは忘れてはならない。

② 多様性の理由
画一的な方が管理も楽だし、目的を果たすためには思考が統一していた方が良さそうなのに、神さまは、なぜ私たちを別々のものとして創造したのだろう?
その理由は、自然界の法則の中にも見て取ることができる。

同じ特徴だけを持つ種や群れは、環境が変わると滅びてしまう。
環境と性質が一致している時には強くても、弱みも一緒なので、滅びるときにはみんな滅んでしまう。

人の強みが発揮されるときに関しても同じことが言える。
強みと弱みは表裏一体なので、誰かの強みは環境次第では弱みになってしまう。
しかし、そこに色んなタイプの人がいれば、これまでは存在感もなく、むしろ足を引っ張っていたような人の特色が、環境次第で活かされることもある。
そうやって常に誰かの強みが活かされる状況は、色んなタイプの人たちがいるからこそ可能になる。

整然と積み上げられたブロックより、バラバラな形の石が積み上げられた石垣の方が強度は強い。
単純に積み上げることだけ考えれば、みんな同じ形の方が早く済むが、一方向から強い力がかかると一斉に崩れてしまう。
違う形の石を積み上げるのは難しく、時間もかかるが、あらゆる方向からの力に耐えることができる強度を持っている。
凸凹を持った私たちが組み合わさることは時に難しいが、様々な目的に応じて機能することができるようになる。
それが、キリストの体になるということだ。

③ 体の一部として機能する
歩くときには役に立っていない内臓は、物を食べるときにはなくてならないもの。
何のためにあるのかわからない眉毛は、雨から目を守るだけでなく、人の表情を豊かにする役割を果たしたりもする。
話し始めたらきりがないほどに、私たちはそれぞれに違う性質を持ち、違う役割を果たしている。
この世界に欠けても良い存在などひとりもいないはずだ。

問題はむしろ、私たちが教会の働きを限定して考えてしまっていることにあるのかもしれない。
私たちは、教会の働きを宗教活動に限定してしまったり、逆に社会運動に限定して考えてはならない。
そしてその働きに夢中になるあまり、その時に機能できない人たちを責めたり、型にはまった活動をさせることを強要するべきではない。
体の中には、一つの行動をするときには、何の役にも立たなかったり、むしろ邪魔に感じるような部分があるのは当たり前のことなのだから。

大切なのは、「キリストの体のどこになるか」ではなく、キリストのからだであることを前提として考えることなのだろう。
私たちがクリスチャンとして、あるいはキリストの弟子として訓練されていく必要があるのは、何よりも私たちが自分自身を知り、より自分らしく生きていくことなのだと思う。

でもそのためには、私たちを創造し、デザインした神さまの思いや願いも知る必要がある。
神さまの意思を知らずして、創られた私たちがその機能を果たすことなどできないから。

④ 何のための賜物
最後にもう一つ、私たちに与えられている賜物は、何のために与えられているものなのかということについて、パウロはこのように書いている。

12:25 それは、からだの中に分裂がなく、各部分が互いのために、同じように配慮し合うためです。

私たちが、自分の役割を果たすために自分の働きのことを中心に考えるなら、むしろその機能を果たすことはできなくなる。
私たちは互いを支え合い、互いに活かし合うために存在しているのだから。

私たちの賜物、奉仕、働きは、私たちの自己肯定感を高めるためにあるのではない。
お互いのために存在するのだということを覚えておこう。
それは、この言葉の中に集約されている。

12:26 一つの部分が苦しめば、すべての部分がともに苦しみ、一つの部分が尊ばれれば、すべての部分がともに喜ぶのです。
12:27 あなたがたはキリストのからだであって、一人ひとりはその部分です。

共に支え合い、それによって共に喜ぼう。
私たちは、一つのからだなのだから。