Ⅰコリント12:27-31 Ⅰコリント28『互いに仕え合う働き』 2023/02/26 けんたろ

1コリント 12:27-31
12:27 あなたがたはキリストのからだであって、一人ひとりはその部分です。
12:28 神は教会の中に、第一に使徒たち、第二に預言者たち、第三に教師たち、そして力あるわざ、そして癒やしの賜物、援助、管理、種々の異言を備えてくださいました。
12:29 皆が使徒でしょうか。皆が預言者でしょうか。皆が教師でしょうか。すべてが力あるわざでしょうか。
12:30 皆が癒やしの賜物を持っているでしょうか。皆が異言を語るでしょうか。皆がその解き明かしをするでしょうか。
12:31 あなたがたは、よりすぐれた賜物を熱心に求めなさい。私は今、はるかにまさる道を示しましょう。

コリントのクリスチャンたちは、不品行や偶像崇拝など、様々な問題が起こっていた。
しかし、全ての問題の中心にあったのは、互いに反目し合う分裂の問題。
パウロ派、そんなコリントの教会を助けるために書いたのが、このコリントの教会に宛てた第一の手紙。

11章からは、話が本質的なところに触れ、結論へと向かっている。
第一に、主の晩餐でパンとぶどう酒を分かち合うことは、罪の赦しと同時に、私たちが一つになることを思い出すためのしるしだということ。
第二に、私たちの賜物、奉仕、働きは様々だが、全ては一つの御霊によって受けている。
そして第三には、私たちが一つのからだなのだということを語られていた。

今回は、そんなキリストのからだの働きの一つとして、教会の中で私たちが果たす役割についての話しである。

① エクレシアとコイノニア
私たちは教会という言葉を聞くと、○○教団の●●教会という宗教組織的なものを連想してしまうので、毎回話しておく必要があることがある。
それは、ここで言う教会とは、宗教組織や制度的な教会を表わしているのではないということ。
聖書の中で、現在私たちが教会と呼んでいるような組織や制度について触れられることはない。
なぜなら、最初の教会はそのようなものではなかったし、数百年経つまでこのような宗教組織は存在していなかったから。

地域で集まるクリスチャンたちの共同体は存在した。
原文では、それをコイノニアという言葉で表している。

一方で、教会と訳される言葉にはもう一つあり、それはエクレシアと呼ばれるもので、それは世界中全てのクリスチャンを集めたキリストのからだのことを意味している。
コイノニア(共同体)はエクレシアの働きの一部であり、現代の教会は、コイノニアの一つの形態と考えていいと思う。

注意しておく必要があるのは、コイノニアは目的ではなく、エクレシアが機能するための手段の一つであり、その働きを助けるためのものだということ。
多くの教会ではそれが逆転して、コイノニアが主体となってしまいがちなので、注意しておく必要がある。

とは言え、今回の箇所はどちらかというとコイノニアに焦点が当てられている。
今までは、外側というか、神さまや世界に働きかけるエクレシアとしての働きについて話していたが、今回は私たちクリスチャンが互いに働きかけることに関して。
コイノニアにも様々な働きがあることが記されている。

② 使徒/預言者
第一に紹介されているのは「使徒」。
使徒とは、最初に町に行って、福音を宣べ伝え、キリストのからだに繋がる者たちを集める働きをする人々のこと。
つまり、ここでは教会開拓者としての働きを意味している。

使徒と言うと、何か特別な権威を持った人々のように考えられがちだが、新約聖書的な価値観を基準に考えると、あまり特別なものと考えすぎない方がいいように思う。
新約の価値観において、人々の関係性はもっとフラットである。
それは、信仰を持った人々には等しく聖霊が与えられるから。

第二に紹介されているのは「預言者」。
預言者とは、神さまから言葉を預かって、それを他の人々に伝える働きをする人のことを指している。
これも、権威を持った特別な働きとして認識されやすい。
旧約時代には特別な存在だったことは確かなので、そのイメージがあるのだと思う。

しかし、新約の時代には全ての人に聖霊が与えられていて、誰もが預言することができる。
神さまの言葉を直接受け取ることができる私たちは、基本的には預言者の仲介を必要としなくなったはず。
預言者を必要とするのは、多くの場合神さまとの関係をまだ持っていない未信者の人たちだろうと思う。

③ 他の働き
第三に、教師、力あるわざ、癒やし、援助、管理、種々の異言という賜物が出てくる。
「教師」は、人々に聖書のことや、様々なことを教える役割である。

「力あるわざ」は奇跡、「癒し」は文字通り人を癒す働き、「援助」は人を支える働き、「管理」はマネージメント的な働き、そして「種々の異言」というのは、異言という特殊な言葉を伴う力のことで、これは自分自身と神さまとの関係を深める作用を持った働きだと言えるだろう。

このリストの中で、異言だけが自分と神さまとの関係だけのものであって、他の人に仕えるためのものではないので、少し特殊な位置づけになっている。
異言については、14章でもっと詳しく話をする。

さて、これは教会(コイノニア)の中での働きのはずだが、ここには「司祭」とか「牧師」という言葉が出てこない。
それは、司祭や牧師という働きが後の時代にできたものだから。

エペソ人への手紙の中には「牧師」という言葉が出てくるが、これは元々「牧者」という言葉を現代の教会に当てはめたものであって、いずれにしても現代の牧師のような働きは初代教会には存在していない。

エペソ人への手紙の中で記されていた牧者の働きは、第一コリントの中で言えば「援助」に当たるだろう。
ちなみに、現代の牧師に当てはめれば、ここにリストアップされているものすべてが牧師の役割ということになる。
ここで意図されている、「全ての人がすべてのことをするのではない」というメッセージを考えてみると、現代の牧師という仕事が、非聖書的であるどころか、反聖書的なものになっているということがわかる。

皆さんが、教会(コイノニア)で果たすのはどんな役割だろうか?
コイノニアでは役割がなく、エクレシアとしての働きの中で活かされるタイプの人もいるだろう。
それはそれで全然問題ない。
肝心なのは、「このリストの中のどこに当てはまるのか」ということではなく、私たちにはそれぞれ違う役割が与えられているということだから。
どんな役割であろうと、私たちは神と隣人を愛するように召されているのだ。