Ⅰコリント13:1-7 Ⅰコリント29『結び合わせるのは愛』 2023/03/05 けんたろ
1コリント 13:1-7
13:1 たとえ私が人の異言や御使いの異言で話しても、愛がなければ、騒がしいどらや、うるさいシンバルと同じです。
13:2 たとえ私が預言の賜物を持ち、あらゆる奥義とあらゆる知識に通じていても、たとえ山を動かすほどの完全な信仰を持っていても、愛がないなら、私は無に等しいのです。
13:3 たとえ私が持っている物のすべてを分け与えても、たとえ私のからだを引き渡して誇ることになっても、愛がなければ、何の役にも立ちません。
13:4 愛は寛容であり、愛は親切です。また人をねたみません。愛は自慢せず、高慢になりません。
13:5 礼儀に反することをせず、自分の利益を求めず、苛立たず、人がした悪を心に留めず、
13:6 不正を喜ばずに、真理を喜びます。
13:7 すべてを耐え、すべてを信じ、すべてを望み、すべてを忍びます。
この聖書箇所は結婚式を始め様々な用途で使われる箇所だが、だからこそこの章だけを切り離して読まれがちな傾向がある。
一旦その意識から離れて、コリントに宛てた手紙の繋がりでこの箇所が意味していることを読み取っていく必要がある。
コリントのクリスチャンたちが直面していたのは分裂の問題。
だからパウロがこの手紙全体を通して伝えようとしていたのは、「一つ」になることの重要さだった。
第一に、主の晩餐は、罪の赦しと同時に、私たちが一つになることを思い出すためのしるしだということ。
第二に、私たちの賜物、奉仕、働きは様々だが、一つの御霊によって受けていること。
第三に、私たちが一つのからだなのだということ。
【愛の賛歌】と呼ばれることもある今日の箇所は、そんな話の流れで伝えられている。
① 愛がなければ
それを意識してこの箇所を読むと、少し印象が違ってくるかもしれない。
13:1 たとえ私が人の異言や御使いの異言で話しても、愛がなければ、騒がしいどらや、うるさいシンバルと同じです。
13:2 たとえ私が預言の賜物を持ち、あらゆる奥義とあらゆる知識に通じていても、たとえ山を動かすほどの完全な信仰を持っていても、愛がないなら、私は無に等しいのです。
13:3 たとえ私が持っている物のすべてを分け与えても、たとえ私のからだを引き渡して誇ることになっても、愛がなければ、何の役にも立ちません。
会社や学校など、世の中ではそれぞれの能力ばかりが注目され、求められる傾向がある。
私たちもそんな価値観で自分や互いを見て、それですべてを測ってしまうことはないか?
私たちが思い出さなければならないのは、私たちが一つのからだであるということ。
互いの間に愛がなければ、そんな力や能力は、互いを生かすことにはならない。
例えどれだけうまく賛美することができ、リードすることができても、例えどれだけ聖書のことを知っていて、それをうまく感動的に伝えることができたとしても、例えどれだけ適切なアドバイスができ、リーダーシップを持っていたとしても、例えどれほど人を助け、命を救う活動をしていたとしても、例えどれほど有能で、たくさんのお金を稼ぐことができたとしても、そこに愛がなければ何の役にも立たない。
② 愛するということ
その話の流れで、パウロは愛をこういうものだと言っている。
13:4 愛は寛容であり、愛は親切です。また人をねたみません。愛は自慢せず、高慢になりません。
13:5 礼儀に反することをせず、自分の利益を求めず、苛立たず、人がした悪を心に留めず、
13:6 不正を喜ばずに、真理を喜びます。
13:7 すべてを耐え、すべてを信じ、すべてを望み、すべてを忍びます。
少し、分かりやすく言葉を補ってみよう。
「あなたたちは思想や能力のことばかりで互いを見て、愛することなんて考えてもいない。それで一つになることなんてできるはずがない。私たちが一つになることが神さまの願いなのに…。だからこそ私たちは、もっと相手に寛容になり、親切になりましょう!」と言っているのだ。
早合点してしまいがちなので、敢えて話してておくと、パウロが言いたいのは「このような究極的な愛が私たちの中にあるかどうか?」という話ではない。
「愛」という言葉に過剰反応して、敵をこのような愛で愛さなければならないのではないかと考えてしまうのかもしれないが、これは同じキリストのからだ同士の関係の話しだ。
ここに書かれているようには人を愛することができないからと言って、「自分にはこんな愛はない。だからダメな人間なんだ」みたいに自分を責めてしまわないように気をつけよう。
私たちの中に神さまのような愛がないことなんて、当ったり前のこと。
パウロだって、そんなことは十分に承知している。
白黒思考の極端に考えて、「できない」と結論付けてしまったのでは、私たちは何も変わることができない。
究極的な愛はひとまず横において、私たちは少しずつでも前に進む必要がある。
③ 愛で結び合わされる
そうして、互いに寛容になり、互いに親切にし、妬まず、自慢せず、高慢にならず、礼儀に反することをせず、自分の利益を求めず、苛立たず、人がした悪を心に留めず、不正を喜ばずに、真理を喜ぶとき、私たちは一つとなっていく。
そのために私たちは、すべてを耐え、すべてを信じ、すべてを望み、すべてを忍ぶことができるように、少しずつ前進していくのだ。
ひとつ勘違いしないで欲しいのは、ここでパウロが言っているのは、一つのからだとして互いに愛し合うという話で合って、イエスさまが話していた「汝の敵を愛せよ」という話とは別だということ。
あるいは、時々言われるような「全ての人をありのままで愛する」という博愛的な話でもない。
飽くまでも、同じ神さまを愛し、キリストのからだとして結び合う私たち教会が、互いに愛することについて話しているということは忘れてはならない。
そう考えてみると、このような愛で結び合わされているのでなければ、私たちは一つのからだとして機能することなんて不可能だということも理解できるのではないだろうか。
とは言え、それでも愛することが困難な時もある。
私たちはそれぞれに役割や働きが違うからこそ、互いを理解できないことも少なくないからだ。
また、自分にそのつもりがあっても、相手が愛する姿勢を忘れてしまっているなら、愛しにくいのは尚更のことだ。
そんな時は、祈ることから始めよう。
できれば、相手と一緒に祈る機会を持とう。
時には互いに距離を置くことが、解決に繋がることもある。
いずれにしても、神さまがきっと解決の道を拓いてくださるはずだ。
諦めることなく、愛によって一つになれるよう、求めていこうではないか。