ヨブ記1章『主が与え、主が取られたのだ、主の御名は、ほむべきかな―ヨブの忍耐その1-』2023/03/12 小西孝蔵 

〇ヨブ記1章
1:1ウヅの地にヨブという名の人があった。そのひととなりは全く、かつ正しく、神を恐れ、悪に遠ざかった。 1:2彼に男の子七人と女の子三人があり、 1:3その家畜は羊七千頭、らくだ三千頭、牛五百くびき、雌ろば五百頭で、しもべも非常に多く、この人は東の人々のうちで最も大いなる者であった。 1:4そのむすこたちは、めいめい自分の日に、自分の家でふるまいを設け、その三人の姉妹をも招いて一緒に食い飲みするのを常とした。 1:5そのふるまいの日がひとめぐり終るごとに、ヨブは彼らを呼び寄せて聖別し、朝早く起きて、彼らすべての数にしたがって燔祭をささげた。これはヨブが「わたしのむすこたちは、ことによったら罪を犯し、その心に神をのろったかもしれない」と思ったからである。ヨブはいつも、このように行った。1:6ある日、神の子たちが来て、主の前に立った。サタンも来てその中にいた。 1:7主は言われた、「あなたはどこから来たか」。サタンは主に答えて言った、「地を行きめぐり、あちらこちら歩いてきました」。 1:8主はサタンに言われた、「あなたはわたしのしもべヨブのように全く、かつ正しく、神を恐れ、悪に遠ざかる者の世にないことを気づいたか」。 1:9サタンは主に答えて言った、「ヨブはいたずらに神を恐れましょうか。 ・・・ 1:18彼がなお語っているうちに、またひとりが来て言った、「あなたのむすこ、娘たちが第一の兄の家で食事をし、酒を飲んでいると、 1:19荒野の方から大風が吹いてきて、家の四すみを撃ったので、あの若い人たちの上につぶれ落ちて、皆死にました。わたしはただひとりのがれて、あなたに告げるために来ました」。1:20このときヨブは起き上がり、上着を裂き、頭をそり、地に伏して拝し、 1:21そして言った、「わたしは裸で母の胎を出た。また裸でかしこに帰ろう。主が与え、主が取られたのだ。主のみ名はほむべきかな」。1:22すべてこの事においてヨブは罪を犯さず、また神に向かって愚かなことを言わなかった。

〇マタイによる福音書
4:8次に悪魔は、イエスを非常に高い山に連れて行き、この世のすべての国々とその栄華とを見せて 4:9言った、「もしあなたが、ひれ伏してわたしを拝むなら、これらのものを皆あなたにあげましょう」。 4:10するとイエスは彼に言われた、「サタンよ、退け。『主なるあなたの神を拝し、ただ神にのみ仕えよ』と書いてある」。 4:11そこで、悪魔はイエスを離れ去り、そして、御使たちがみもとにきて仕えた。

〇ヤコブの手紙5章
5:10兄弟たちよ。苦しみを耐え忍ぶことについては、主の御名によって語った預言者たちを模範にするがよい。 5:11忍び抜いた人たちはさいわいであると、わたしたちは思う。あなたがたは、ヨブの忍耐のことを聞いている。また、主が彼になさったことの結末を見て、主がいかに慈愛とあわれみとに富んだかたであるかが、わかるはずである。
「主が与え、主が取られた、主の御名は、ほむべきかな-」
               ―ヨブの忍耐その1-(ヨブ記1章)

(聖書朗読、祈り、初めに)

・昨日は、東日本大震災から12年。約1か月間には、トルコ・シリア大震災が発生、被災者のことを思うと心が痛む。災害は、いつ来るか分からない。大地震が来ると、財産や命まですべてが奪われる。今日のメッセージに関係。

・パワーポイントの写真は、我が家の梅の木。前回、ヨハネ伝5章で、神様は、ブドウの実を結ばせるために、わざと枝を剪定する話から、我が家の梅の枝を切り落とした。花は沢山咲いたが、果たして実を結ぶかどうか?

                    

  1. ヨブ記を取り上げるきっかけ
    • 余談だが、あるビジネスマンが初めて英語のバイブルを手にして、興味をもって読み始めたのが、Jobを読み始めておかしいと思うようになった。ヨブ記を仕事の書物と勘違いしたようだ(笑い).
    • 若い時は、ヨブ記が怖い、とてもヨブのような苦難には耐えられないと敬遠していたが、10年前がんで1週間入院手術、1か月通院治療、その間に3回通読。
    • 直接のきっかけは、最近、101歳で死を目前にしている母の介護に付き添っているうちに、この世のことばかりに目を向けてきた自分にとって、死は最大の試練。ヨブ記を取り上げてみたいと思うようになった。

→ 今回から3~4回に分けて、皆様とご一緒にヨブ記を学びたい。

 

  1. ヨブ記の位置づけとヨブの人物紹介
    • 時代背景は不明。イスラエル王国の前~ユダの捕囚後。エゼキエル書14(14)で、ノア、ダニエルの後にヨブを引用していることからバビロン捕囚の頃か?詩編22篇(「悲嘆の言葉」「私は虫けら」)、詩編104篇(「威厳と輝きで身を包む」「レビヤタンと戯れる」)等の類似表現から見て、ダビデ時代の前後か? 
    • ヨブの居所は、ウズの地とは、イスラエルの東南のエドム(エサウの子孫)? アラビア半島の北西部あたり?(地図参照)ヨブは異邦人、内面のリアルな描写から見ても実在の人に違いない。

羊7千頭、ラクダ3千頭、牛5百頭、雌ロバ5百頭を有する裕福な人、東部地方では最も栄えた人とされている。余談だが、日本で千頭を超える牛を超える畜産農家は、日本最大級の規模、「ギガファーム」と言われる。商品経済が未発達の時代からすると、羊やラクダなど1万頭規模の飼い主は、現代日本の長者番付に出てくるような金持ち?

  • 義人ヨブの人の信仰と善行-神を畏れ、悪から遠ざかり、男子7人、女子3人の子どもを聖別し、神に燔祭を捧げ、弱い人たちを助けていた模範的な義人(29章)。ヤコブ書でもヨブの忍耐が引用されているが、義人ヨブにしても神の前には、完全人間ではなかった。
  1. サタンの誘惑とヨブの苦難(前半)
    • 神の前に現れたサタンはこう言った。「ヨブは、いたずらに神を畏れるでしょうか?」(1章9節)(Does Job fear God for nothing?)人間は、何らかの利己的な理由で神を信じているのではないか? ご利益宗教ではないか? 信じていると言っても、自分の仕事や家族、健康が守られ、名誉・地位やお金が与えられるよう、自分の仕合せのために、神に祈っているのでは?自分の胸に手を当ててよくよく考えてみると、そうした利己的な自分が見える。
    • 神に許しを得たサタンの働きによって、ヨブに次々と災いが襲い掛かる。まず、

500頭の牛、ロバと使用人がシバ人(アラビアの盗賊)に殺された。次に、7千匹の羊と使用人が天からの日で焼き尽くされた。そして、3千頭のラクダと使用人がカルデア人(遊牧民の略奪者)に殺され、次々と遊牧民のならず者に襲われて、殺された。そしてついに、7人の息子、3人娘も殺されてしまう。

  • 災難は、これでも終わらないが、第1章では、7つの災難のうち、4つが記されている。日本でも、戦国武将山中鹿之助の言葉「願わくは、七難八苦を与え給え」が有名だが、私には、それどころか、苦難は、できるだけ避けたい、若いころ、ヨブ記を読むのが怖かった理由でもある。何故、こんな苦難に会わなければいけないのか、自分には到底耐えられない・・と試練の意味について深く考えさせられる。

4.ヨブの信仰と忍耐

しかし、ヨブの信仰は揺るがなかった。 第1章20~22節の結末はこうです。「この時、ヨブは、起き上がり、上着を裂き、頭をそり、地に伏して拝しながらこう言った、わたしは裸で母の胎を出た。また裸でかしこに帰ろう。主が与え、主が取られたのだ。主のみ名はほむべきかな。すべてこの事においてヨブは罪を犯さず、また神に向かって愚かなことを言わなかった。」

① この21節の言葉は、私にとって最も好きなみ言葉の一つ。ヨブの忍耐とその信仰の深さに感動。私たちは、神からいろいろな恵みや賜物、命そのものも与えられている。それは本当に感謝だが、一旦手にしたら、死んでも放したくないものになっているのが人間の常。たとえて言えば、猿が檻の中の餌を握って離れようとするが握りしめているので逃げることができないといった様子にも似ている。それに対して、神から頂くものは感謝して受けるが、取り去られるときは、素直にお返しする。そして神様への感謝と賛美を忘れないことが大事。中々、できないことですが。

  • 話がとぶが、新渡戸稲造と共に札幌農学校2期生、独立伝道者の内村鑑三は、ヨブ記をこよなく愛し、生涯別々の時期に、3回にわたって講義し、日本のヨブともいう人ともよばれている。彼は、意図せざる形で天皇陛下に対する不敬事件の責任を問われ、インフルエンザで意識を失って病床にある中で、一高の教職を解任され、追い打ちをかけられるように、妻が亡くなるという苦難に遭遇したが、苦悩の末、ヨブ記によって再び慰めと救いの確信を得たと言われる。
  • ヨブの忍耐は、ヤコブ書5章で信徒の模範とされている。神の愛により、苦難を耐え忍ぶことができることが示されている。

〇ヤコブの手紙5章「5:10兄弟たちよ。苦しみを耐え忍ぶことについては、主の御名によって語った預言者たちを模範にするがよい。 5:11忍び抜いた人たちはさいわいであると、わたしたちは思う。あなたがたは、ヨブの忍耐のことを聞いている。また、主が彼になさったことの結末を見て、主がいかに慈愛とあわれみとに富んだかたであるかが、わかるはずである」

 

5.苦難の意義とは?-試練を通じて現わされる神の愛、

①何故、災いに会うのか?神に背く人間に神が与える裁きや警告とみられる場合もある。しかし、ヨブのように、何故、自分だけにこのような禍に会わねばならないのか分からなくなる場合がある。2章以降、ヨブの試練と苦悩は続いていく。ヨブの試練は、この後、見舞いに訪れる友人3人との問答が延々と続く中でヨブは自暴自棄に陥る。

  • 試練は、その時には、理由はよくわからないけれども、神に愛されているからこそ与えられるとわかる時期がある。へブル人への手紙12章には、こう記されている。「12:7なたがたは訓練として耐え忍びなさい。神はあなたがたを、子として取り扱っておられるのである。いったい、父に訓練されない子があるだろうか。・・・12:11すべての訓練は、当座は、喜ばしいものとは思われず、むしろ悲しいものと思われる。しかし後になれば、それによって鍛えられる者に、平安な義の実を結ばせるようになる。」
  • ヨブの時代には、未だキリストは地上に来られていなかったので、その苦悩の中で、必死に神様との間に立つ仲裁者(とりなしをしてくれる仲介者)を求めた。その仲裁者こそがやがて地上に来られるイエスキリストであった。キリストは、サタンの試みに打ち勝って、十字架の上で、私たちの罪の身代わりになり、復活され、死に打ち勝って下さった。十字架上のイエスの言葉「わが神、わが神、何故私をお見捨てになられたのですか」は、冒頭紹介した詩編22篇の引用、その終わりは、こういう言葉で締めくくられている。「主を畏れる人々よ、主を賛美せよ。」ヨブと違って、現代の私たちにとって、既にキリストに出会っている。私たちの弱さと罪を一身に背負って下さったイエスと共に生きることによって、試練に打ち勝つことができる。

 

6.最後に-主への賛美を忘れることなく

 ヨブは、無理解な友人とのやり取りによる苦悩の後、最終的に、神様からの直接の呼びかけによって神様との関係を回復するが、その過程は、次回以降に譲る。本日のところは、絶望的な状況の中でも、なお、神に信頼を置いていた義人ヨブの言葉をもう一度ご一緒にお読みして、主に対する賛美をもって終わりたいと思います。「わたしは裸で母の胎を出た。また裸でかしこに帰ろう。主が与え、主が取られたのだ。主のみ名はほむべきかな」(1章20節)  

 

       (祈り)