Ⅰコリント13:8-13 Ⅰコリント30『愛は絶えることがない』 2023/03/19 けんたろ

1コリント 13:8-13
13:8 愛は決して絶えることがありません。預言ならすたれます。異言ならやみます。知識ならすたれます。
13:9 私たちが知るのは一部分、預言するのも一部分であり、
13:10 完全なものが現れたら、部分的なものはすたれるのです。
13:11 私は、幼子であったときには、幼子として話し、幼子として思い、幼子として考えましたが、大人になったとき、幼子のことはやめました。
13:12 今、私たちは鏡にぼんやり映るものを見ていますが、そのときには顔と顔を合わせて見ることになります。今、私は一部分しか知りませんが、そのときには、私が完全に知られているのと同じように、私も完全に知ることになります。
13:13 こういうわけで、いつまでも残るのは信仰と希望と愛、これら三つです。その中で一番すぐれているのは愛です。

コリントのクリスチャンたちが直面していたのは分裂の問題。
だからパウロがこの手紙全体を通して伝えようとしていたのは、「一つ」になることの重要さだった。

第一に、主の晩餐は、罪の赦しと同時に、私たちが一つになることを思い出すためのしるしだということ。
第二に、私たちの賜物、奉仕、働きは様々だが、一つの御霊によって受けていること。
第三に、私たちが一つのからだなのだということ。

前回学んだのは、「それぞれの賜物、奉仕、働きがどれだけ優れたものであっても、そこに愛がなければ何の意味もない」ということだった。
なぜなら、愛がなければすべてがバラバラになってしまうから。
一つに結び合わせられることがなければ、私たちは一つのからだとして機能することができない。
そして私たちを結び合わせるものとして、愛は最もすぐれたもの。
それがどれほど優れたものであるかということについて、パウロは話を続けている。

① 愛は決して絶えることがない
賜物を結び付けるものとして愛が優れたものである理由。
それは、愛が決して絶えることがないから。

13:8 愛は決して絶えることがありません。預言ならすたれます。異言ならやみます。知識ならすたれます。
13:9 私たちが知るのは一部分、預言するのも一部分であり、
13:10 完全なものが現れたら、部分的なものはすたれるのです。

預言も、異言も、知識も、それぞれは素晴らしいものであったとしても、それだけではやがてすたれ、なくなってしまうもの。
しかし、愛は決して絶えることがない。
そのような愛によって結び付けられたとき、それは永遠に続く、一つのキリストのからだとして完成する。

② 霊的に大人になる
そんなパウロも、最初からそんな風に考えらえていたわけではなかった。
特に、ユダヤ教の枠の中にいた時には、自分に与えられている賜物や奉仕、働きを意識していたかもしれないけれど、一つのからだとして認識することはできていなかった。

13:11 私は、幼子であったときには、幼子として話し、幼子として思い、幼子として考えましたが、大人になったとき、幼子のことはやめました。

独立した、手足としてしか認識できない時もあるだろう。
自分の賜物や奉仕、働きだけしか見ることができず、他のクリスチャンが何もわかっていないように感じたり、怠け者のように見えることもある。
大人として、全体像で見られるようになれば、もう以前のように見ることはない。
しかし、それですら、私たちが天に挙げられたときに見る光景には遠く及ばないだろう。

13:12 今、私たちは鏡にぼんやり映るものを見ていますが、そのときには顔と顔を合わせて見ることになります。今、私は一部分しか知りませんが、そのときには、私が完全に知られているのと同じように、私も完全に知ることになります。

今は、鏡にぼんやり映っているものを見ているに過ぎないのはその通りである。
だから、神の国を認識しきれないのもある程度は仕方がない。
でも、私たちは心の内に神の国をイメージし、そこに向かっていくことはできる。
だからこそ、今はまだ完成していない私たちが、信じ、期待し、愛をもってそこに向かっていくことが大切である。
パウロは、この話をこのように締めくくっている。

13:13 こういうわけで、いつまでも残るのは信仰と希望と愛、これら三つです。その中で一番すぐれているのは愛です。

③ 愛は本当に絶えることがないのか?
ここで疑問に持つ人もいるかもしれない。
「愛は決して絶えることがない」というが、それは本当なのか?
私たちは、多くの人たちの愛が破れ、壊れてしまうのを見て来たのではないか?
本当に愛が絶えることないなら、どうして不倫のようなものが起こるのか?

それは、私たちが愛を感情だと思い込んでしまうことによって起こる誤解である。
時として言われることだが、「愛とは選択であって、感情ではない」。
感情は、水の中に石を投げ入れて起こる波紋のようなもので、何かに対する反応として現れるもの。
世の中で使われる「愛」のほとんどは、この感情のことを言っているのであって、どちらかと言えば「好き」に近く、聖書が教える愛とは違うものである。

聖書の愛は、私たちの関係性であり、感情ではない。
Iコリント13章の前半をもう一度見てみよう。

Iコリント 13:4 愛は寛容であり、愛は親切です。また人をねたみません。愛は自慢せず、高慢になりません。
13:5 礼儀に反することをせず、自分の利益を求めず、苛立たず、人がした悪を心に留めず、
13:6 不正を喜ばずに、真理を喜びます。
13:7 すべてを耐え、すべてを信じ、すべてを望み、すべてを忍びます。

相手を好きな時は、自然とこのような反応になるかもしれないが、相手のことが好きでなくても寛容になり、親切にし、ねたまず、自慢せず、高慢にならないことはできる。
相手が好きだろうと嫌いだろうとこのような関係を持つことが愛であり、私たちが相手を愛するという選択をし続ける限り、それが絶えることはない。

信仰も、希望もまた同じ。
そこには私たちの選択がある。
しかし、その中で最も優れたものは愛だとパウロは言う。
信仰や希望は私たちの内に起こるものだが、愛は自分自身の中で完結せず、他の人たちに働きかけるものだから。

私たち、キリストのからだが愛によって結び合わされ、私たちがますますそのような視点で物事を見ることができるように。
そして、そこに神の国を見出していこうではないか。