Ⅰコリント14:1-9 Ⅰコリント31『異言で祈る時の注意点』2023/03/26 けんたろ
1コリント 14:1-19
14:1 愛を追い求めなさい。また、御霊の賜物、特に預言することを熱心に求めなさい。
14:2 異言で語る人は、人に向かって語るのではなく、神に向かって語ります。だれも理解できませんが、御霊によって奥義を語るのです。
14:3 しかし預言する人は、人を育てることばや勧めや慰めを、人に向かって話します。
14:4 異言で語る人は自らを成長させますが、預言する人は教会を成長させます。
14:5 私は、あなたがたがみな異言で語ることを願いますが、それ以上に願うのは、あなたがたが預言することです。異言で語る人がその解き明かしをして教会の成長に役立つのでないかぎり、預言する人のほうがまさっています。
14:6 ですから、兄弟たち。私があなたがたのところに行って異言で語るとしても、啓示か知識か預言か教えによって語るのでなければ、あなたがたに何の益になるでしょう。
14:7 笛や竪琴など、いのちのない楽器でも、変化のある音を出さなければ、何を吹いているのか、何を弾いているのか、どうして分かるでしょうか。
14:8 また、ラッパがはっきりしない音を出したら、だれが戦いの準備をするでしょう。
14:9 同じようにあなたがたも、舌で明瞭なことばを語らなければ、話していることをどうして分かってもらえるでしょうか。空気に向かって話していることになります。
14:10 世界には、おそらく非常に多くの種類のことばがあるでしょうが、意味のないことばは一つもありません。
14:11 それで、もし私がそのことばの意味を知らなければ、私はそれを話す人にとって外国人であり、それを話す人も私には外国人となるでしょう。
14:12 同じようにあなたがたも、御霊の賜物を熱心に求めているのですから、教会を成長させるために、それが豊かに与えられるように求めなさい。
14:13 そういうわけで、異言で語る人は、それを解き明かすことができるように祈りなさい。
14:14 もし私が異言で祈るなら、私の霊は祈りますが、私の知性は実を結びません。
14:15 それでは、どうすればよいのでしょう。私は霊で祈り、知性でも祈りましょう。霊で賛美し、知性でも賛美しましょう。
14:16 そうでないと、あなたが霊において賛美しても、初心者の席に着いている人は、あなたの感謝について、どうしてアーメンと言えるでしょう。あなたが言っていることが分からないのですから。
14:17 あなたが感謝するのはけっこうですが、そのことでほかの人が育てられるわけではありません。
14:18 私は、あなたがたのだれよりも多くの異言で語っていることを、神に感謝しています。
14:19 しかし教会では、異言で一万のことばを語るよりむしろ、ほかの人たちにも教えるために、私の知性で五つのことばを語りたいと思います。
Iコリントの14章は、特に異言について語られている箇所。
コリントの教会では異言が盛んに行われていた地のようで、かなり詳しく具体的に述べられている。
でも、私たちの集まりでは異言で祈る人は少ないと思うので、14章は軽く話すだけにとどめておきたいと思う。
① 異言とは何か
そもそも異言とは何だろう?
異言とは、日本語で書いたその意味の通り、異なる言葉で話すこと。
私たちが学んだことがない言葉で、祈ったり賛美をする。
旧約聖書では、サムエルの母ハンナや、サウル王が聖霊に満たされて異言で祈っているらしき様子が描かれている。
周りの人たちからは、酔っぱらったり狂っているように見えたという描写がされている。
新約聖書の中で明確に描かれているのは、使徒の働きで聖霊が降った時のできごとである。
イエスさまの弟子たちが聖霊で満たされ、外国語で話し始めた。
海外から来た人たちがその様子を見て、自分たちの国の言葉で彼らが福音を語っているのを耳にし、その日だけで3000人の人々が救われた。
ここでは、異言がはっきりとした外国語で出てきているが、現代「異言」とされている言葉の多くはどの言語形態にも入らず、「バラバラ」言っているだけの言語にすらなっていないものも少なくない。
いずれにしても、神の御業として起こることなので、私たちがどうこう批判できるようなものではないのだろうと思う。
② 異言を求めるべきか
異言は賜物の一つとして数えられており、賜物は求めることによって与えられることもあるようなので、異言で祈ることができるように求めてみるのもいいかもしれない。
僕自身も異言を求めてみたが、現時点では与えられているようには感じない。
「私に必要であれば与えて下さい」という求め方だったので、シンプルに僕には必要ではなかったのかもしれない。
しかし、異言で祈る人たちの多くは、口を揃えたように異言で祈ることの素晴らしさについて話す。
神さまと直接話している感覚が大きいのだそうで、その体験そのものを通して、神さまとの関係が近くなることもあるのだろう。
パウロ自身もこのように書いている。
Iコリント 14:5a 私は、あなたがたがみな異言で語ることを願いますが、それ以上に願うのは、あなたがたが預言することです。
Iコリント 14:39bまた、異言で語ることを禁じてはいけません。
一方で、この同じ個所では、「異言よりも預言を求めなさい」と勧められていることも忘れてはならない。
14:5 私は、あなたがたがみな異言で語ることを願いますが、それ以上に願うのは、あなたがたが預言することです。異言で語る人がその解き明かしをして教会の成長に役立つのでないかぎり、預言する人のほうがまさっています。
パウロが言うように、異言で祈ることは私たち自身の成長にはいいのかもしれないが、他の人には何の益にもならない。
「不思議だなぁ」と感銘くらいは与えるかもしれないが、返って相手が引いてしまうこともある。
Iコリント 14:23 ですから、教会全体が一緒に集まって、皆が異言で語るなら、初心の人か信じていない人が入って来たとき、あなたがたは気が変になっていると言われることにならないでしょうか。
そのような訳で、異言は良いものではあるし、否定されるべきものでもないが、取り扱いには注意が必要だということ。
異言はどうしても内向きの賜物なので、それが他の人たちの役にも立てるようにより良い賜物を求めなさいと勧められている。
より良い賜物とは預言のことであり、これについては次回のメッセージでお話する。
③ ここから学ぶべきこと
このことを通して、異言を話さない私たちも学ぶべきこともある。
それは、私たちに求められている信仰の姿勢は、一人で完結するものではなく、他の人たちとの関係性が求められているということ。
さらに言えば、私たちは内向きではなく、外向きであるべきだということ。
私たちは、つい自分のことばかりを求めてしまう傾向がある。
自分が何を学び、何を体験し、礼拝を捧げ、恵みを受け、喜びに満たされる事ばかりを求めてしまいがち。
もちろん、そのような体験自体が否定されているのではない。
私たちはたくさんの恵みと喜びを受け取るべきだろう。
しかし、もしそれだけで完結してしまうなら、そこにある姿勢は、異言で神さまとの関係だけを味わい、それを他の人たちに示さないのと同じ姿勢ではないだろうか?
私たちは、受けたものを他の人たちに流していく必要がある。
神さまの愛を、喜びを、他の人たちに分かち合うことが求められている。
私たちは、そんな風に人に仕え、人を愛し、人を喜ばせているだろうか?
聖書が繰り返し述べているように、私たちは心からそんな愛を求めていこうではないか。