Ⅰコリント14:20-26、39-40 Ⅰコリント32『預言を語るときの注意点』 2023/04/02 けんたろ

1コリント 14:20-26、39-40
14:20 兄弟たち、考え方において子どもになってはいけません。悪事においては幼子でありなさい。けれども、考え方においては大人になりなさい。
14:21 律法にこう書かれています。「『わたしは、異国の舌で、異なる唇でこの民に語る。それでも彼らは、わたしの言うことを聞こうとはしない』と主は言われる。」
14:22 それで異言は、信じている者たちのためではなく、信じていない者たちのためのしるしであり、預言は、信じていない者たちのためではなく、信じている者たちのためのしるしです。
14:23 ですから、教会全体が一緒に集まって、皆が異言で語るなら、初心の人か信じていない人が入って来たとき、あなたがたは気が変になっていると言われることにならないでしょうか。
14:24 しかし、皆が預言をするなら、信じていない人や初心の人が入って来たとき、その人は皆に誤りを指摘され、皆に問いただされ、
14:25 心の秘密があらわにされます。こうして、「神が確かにあなたがたの中におられる」と言い、ひれ伏して神を拝むでしょう。
14:26 それでは、兄弟たち、どうすればよいのでしょう。あなたがたが集まるときには、それぞれが賛美したり、教えたり、啓示を告げたり、異言を話したり、解き明かしたりすることができます。そのすべてのことを、成長に役立てるためにしなさい。

14:39 ですから、私の兄弟たち、預言することを熱心に求めなさい。また、異言で語ることを禁じてはいけません。
14:40 ただ、すべてのことを適切に、秩序正しく行いなさい。

引き続き、今回もIコリントの14章から。
前回は異言についての話しだった、
異言とは、聖霊によって神さまが語らせてくださる、自分の言葉とは異なる言葉のこと。
コリントの人たちは、よく異言で祈っていたようで、パウロはこの手紙の中で幾度となく異言について話している。

① 考え方において大人となる
今日の箇所ではこのように言われている。

14:20 兄弟たち、考え方において子どもになってはいけません。悪事においては幼子でありなさい。けれども、考え方においては大人になりなさい。

少し意味が分かりにくいが、これは思いのままに恍惚となって異言で祈っている人々への注意喚起。
いつまでも、幼児が思うままに分からない音を発するようであってはならないとパウロは言うのである。
また、このようにも言われている。

14:22 それで異言は、信じている者たちのためではなく、信じていない者たちのためのしるしであり、預言は、信じていない者たちのためではなく、信じている者たちのためのしるしです。

これも分かりにくいが、この直前に書かれているイザヤ28章の引用から考えると、「外国語で語られたアッシリアの人たちに神さまを理解することができなかったように、異言で語られた人々は神さまを理解することがない」ということ。
神のためや、私たちが福音を受け取って欲しいと願う人たちには、理解できる言葉(預言)を持って伝えるべきである。
そこで、今回は預言について話していく。

② 預言とは何か
預言というのは、神さまから預かったことばを話すこと。
そういう意味では、やはり異言も預言の一種だと言えるのだろうけれど、それを相手に分るように伝えるのが預言と考えればいいと思う。

これは、霊的な賜物のひとつなので、知識として学んだことを伝えることとは違う。
なので、聖書に書かれていることを誰かに伝道することは、預言と呼ぶことはできないと思う。(そのように理解している人たちもいる)

旧約聖書では、たくさんの預言の言葉が残されている。
その多くは、神さまからの警告、導き、そして約束の言葉によって成り立っている。
約束について語られるときには未来に起こることにも言及されることが多いため、預言が予言にもなっている場合が多い。

広い意味では、説教も預言の内に入ると言うことができるが、全ての説教が預言とは言えない。
聖書の勉強をして、その知識を伝える説教は、学んだことの発表であって預言ではない。
僕自身の説教も、大半は皆さんが聖書を読むときのヒントとなるように解説をしているだけで、預言ではない。
しかし、その中に神さまからの預言的なメッセージが含まれることもある。
多くの場合、皆さんの心に残るのは、神さまが語られて部分だろうと思う。

③ 互いに預言し合う
このように聞いていると、難しいことのように思うかもしれないが、聖霊を受けているクリスチャンであれば誰にでも与えられる。
私たちの心が神さまの心と重なっていれば、誰かと話していたり、祈っている時に、神さまがその相手に伝えようとしていることが不意に分かる時がある。
そんな時には、神さまがその人に何かを伝えようとしているのかもしれないので、伝えてあげればいい。
それが、預言をするということ。

しかし、注意点がある。
預言は神さまの代弁者になることでもあるので、他のクリスチャンに対する力になる。
承認欲求を満たすためや、誰かをコントロールするために預言を使ってはならない。
カルトでは、そのようなことがしばしば行われる。
「私こそが復活のイエスである」と言うのと同じくらいの力を発揮することもある。
預言する時の動機について、パウロはこのように言っている。

14:26 それでは、兄弟たち、どうすればよいのでしょう。あなたがたが集まるときには、それぞれが賛美したり、教えたり、啓示を告げたり、異言を話したり、解き明かしたりすることができます。そのすべてのことを、成長に役立てるためにしなさい。

互いの成長が動機となっているだろうか?
また、成長が預言したことの結果として現れているだろうか?
もしそうでないなら、それが本当に神さまから来たものなのかどうか、考え直してみた方がいいかもしれない。

たとえそれが正しい言葉だったとしても、成長に繋がらないこともある。
正論をぶつけることで相手の心をへし折り、無気力にさせてしまったり、返って頑なにしてしまうこともある。
そんな無神経な預言によるマウントもたくさん聴いてきた。

Iコリント 14:3 しかし預言する人は、人を育てることばや勧めや慰めを、人に向かって話します。

という言葉を思い出し、柔和な心で、相手を立て上げることを心掛けて欲しい。
また、私たちは間違えることもある。
神さまの言葉だと思っていたら、そうではなかったということも時として起こる。
しかし、神さまの言葉を伝える者にはたくさんの責任も伴う。
嘘を教える偽預言者は、裁きを受けることになると聖書には書かれている。
預言するときには、十分に気をつける必要がある。
そこでお勧めしたいのは、預言する時には最終的な判断を相手に委ねるように伝えるということだ。

預言書を読んでいると、「主はこう言われる」と断定的に伝えているのを見る。
でも私たちは、「神さまはこんな風に思っているんじゃないかなぁ」と柔らかい姿勢で伝え、判断は相手に委ねた方がいいと思う。
相手がクリスチャンであれば、その人が自分で神さまに聞いてみればいいことである。
私たちが預言を伝えるときは、その人が神さまに聞いてみる機会を作るために伝えると思えばいい。
最後に、もう一度第一コリント13章まで遡ってこの言葉を読んで締めくくりたい。

Iコリント 13:1 たとえ私が人の異言や御使いの異言で話しても、愛がなければ、騒がしいどらや、うるさいシンバルと同じです。
13:2 たとえ私が預言の賜物を持ち、あらゆる奥義とあらゆる知識に通じていても、たとえ山を動かすほどの完全な信仰を持っていても、愛がないなら、私は無に等しいのです。

愛を持って、神さまの言葉を伝えていこう。