2023 イースター 『復活祭って何ですか?』 2023/04/09 けんたろ

今日は教会歴で復活祭と呼ばれる日。
キリスト教会では、12月25日にキリストの誕生を祝うように、4月にキリストの復活を祝う伝統がある。
初期のキリスト教で、キリストの復活が過ぎ越しから3日後であるところから、復活の日は「春分の日の後の最初の満月の次の日曜日」であると割り出し、祝われるようになった。

英語圏ではイースターと呼ばれ、日本の教会でもその呼び方が定着しているが、多くの国では「パスハ」と呼ばれている。
これは、ヘブライ語の「ペサハ」をギリシア語読みしたもので、「過ぎ越し」という意味の言葉。
つまり、キリスト教ではユダヤ教とは違う形で「過ぎ越し」を祝って来たということになる。

「イースター」という呼び方は、ドイツ語の「オースタン」から来ている。
さらに遡ると、ゲルマン語で4月を表わす「エオストレモナト」から来ている。
4月に祝うお祭りなのでこのように呼ぶようになったらしい。
プロテスタント教会の多くが「パスハ」という呼び名ではなく、「イースター」と呼んでいるのは、プロテスタントがドイツから始まり、英語圏で広がった経緯があるからだろう。

エオストレモナトの語源は、ゲルマン神話の女神エオストレから来ていることもあり、私たちクリスチャンにとって「イースター」という呼び方が適切なのかどうかという疑問はあるが、私たちが祝うのはあくまでもキリストの復活である。
これは、キリストが生まれる前の旧約聖書の時代から、「初穂の祭り」として祝われてきた日である。
初穂の祭りについて興味があったら、去年の復活祭の時にその話をしているので、YouTubeで去年のメッセージを観て欲しい。

① どうして復活を祝うのか
十字架に掛けられ、一度死んだにも関わらずキリストが復活したことは確かにすごい。
それが奇跡的な出来事であることに疑問を持つ人はいないだろう。
しかし、そのことをここまで重要なこととして祝うのはなぜなのか?
それは、キリストの復活が「心肺停止からの蘇生」というだけに留まらない大切な意味を持っていることだからである。

そのことを理解するためには、まず聖書において「死」が何を意味しているかということを知る必要がある。
聖書の中で最初に「死」という言葉が出てくるのは、創世記2章である。

創世記 2:16 神である【主】は人に命じられた。「あなたは園のどの木からでも思いのまま食べてよい。
2:17 しかし、善悪の知識の木からは、食べてはならない。その木から食べるとき、あなたは必ず死ぬ。」

人は、この後禁じられていた善悪の知識の木から取って食べ、死ぬ者となってしまった。
死とは、神さまに背いたことの証拠であり、神さまとの関係が壊れてしまったことを意味している。
この時人は、死んだ者となり、命の源である神さまと断絶してしまったのである。
私たちは、これを「霊的な死」と表現している。

② 死の結果起こったこと
善悪の知識の木を食べて、霊的に死んだ者となった人には何が起こったか?
人は神を恐れ、自ら離れる者となり、私たちが生きるこの世界も呪われたものとなった。
楽園のようだった世界は、食べるためにも苦労する世界となり、病や、災害や、争いが絶えない場所となった。
そして、神さまは人が死んだことの結果をこのように締めくくっている。

創世記 3:19 あなたは、顔に汗を流して糧を得、ついにはその大地に帰る。あなたはそこから取られたのだから。あなたは土のちりだから、土のちりに帰るのだ。」

霊的に死んで、命の源である神さまと断絶した人は、肉体的にも死ぬ存在となった。
多くの人々は、普段の生活の中で霊的な死を意識することはないが、肉体的な死は全ての人がやがて直面する現実である。

③ キリストの復活が意味すること
「死とは、神さまとの関係が壊れた状態のこと」ということが理解できると、キリストの復活の意味がようやく分かってくる。
そこには3つの意味がある。

第一に、イエスさまが神であったということ。
命の源は神さまなので、神さまから離れた人間には死を打ち破ることができない。
復活は、そこに神の業があったということのしるしに他ならない。

第二に、イエスさまが救い主であったということ。
死の呪いが破られるときが来ることは、人が罪人となったその時から約束されていたこと。
旧約聖書では、救い主が現れてそれを実現することが繰り返し述べられていた。
イエスさまが十字架に掛けられて死に、その三日目によみがえったことは、イエスさまこそが救い主であったことのしるしに他ならない。

第三に、罪の呪いである死が打ち破られたこと。
イエスさまの復活を通して、死の呪いが打ち破られた。
それが言葉だけでなく、物理的に証されたのが復活である。

イエスさまが神であり、救い主であり、罪の呪いが打ち破られたということは、神さまの約束が達成されたということ。
つまり、神さまの救いの業は完成したということだ。
今やそれは、誰でも受け取ることができるものとなっている。

私たちを取り巻く環境はまだ救いを受けた状態ではないので、全てが元通りになったわけではないけれど、私たちがその救いを受け取りさえすれば、神さまとの関係はすぐにでも回復し、復活のいのちの中に生きることになる。

「信仰」とか「信じること」というと少しイメージが湧きにくいかもしれないが、本来それは本当にシンプルなこと。
要は、私たちがその交流を始めるかどうか、それだけだ。
まずは語り掛けてみるところから始めてみよう。
神さまは、きっと応えてくださるはずだ。