Ⅰコリント14:27-40 Ⅰコリント33『初代教会の姿』 2023/04/16 けんたろ

1コリント 14:27-40
14:27 だれかが異言で語るのであれば、二人か、多くても三人で順番に行い、一人が解き明かしをしなさい。
14:28 解き明かす者がいなければ、教会では黙っていて、自分に対し、また神に対して語りなさい。
14:29 預言する者たちも、二人か三人が語り、ほかの者たちはそれを吟味しなさい。
14:30 席に着いている別の人に啓示が与えられたら、先に語っていた人は黙りなさい。
14:31 だれでも学び、だれでも励ましが受けられるように、だれでも一人ずつ預言することができるのです。
14:32 預言する者たちの霊は預言する者たちに従います。
14:33 神は混乱の神ではなく、平和の神なのです。聖徒たちのすべての教会で行われているように、
14:34 女の人は教会では黙っていなさい。彼女たちは語ることを許されていません。律法も言っているように、従いなさい。
14:35 もし何かを知りたければ、家で自分の夫に尋ねなさい。教会で語ることは、女の人にとって恥ずかしいことなのです。
14:36 神のことばは、あなたがたのところから出たのでしょうか。あるいは、あなたがたにだけ伝わったのでしょうか。
14:37 だれかが自分を預言者、あるいは御霊の人と思っているなら、その人は、私があなたがたに書くことが主の命令であることを認めなさい。
14:38 それを無視する人がいるなら、その人は無視されます。
14:39 ですから、私の兄弟たち、預言することを熱心に求めなさい。また、異言で語ることを禁じてはいけません。
14:40 ただ、すべてのことを適切に、秩序正しく行いなさい。

引き続き、今回もIコリントの14章から。
Ⅰコリントの14章は、異言/預言についての話が続いての話がメインとなっているが、その中に見えてくる初代教会の姿に注目してみたい。

私たちが知る教会の姿は、礼拝順序が明確になっていて、賛美リーダーが賛美を導き、司会者が取り仕切って、説教者だけが話をするという形。
しかし、聖書の中では、人々がそのように礼拝を行っていたという記述はどこにもない。
では、聖書で描かれている教会はどんな姿だったのだろうか?
Iコリントを通して、初代教会がどのようなものだったのかを探ってみよう。

① 初代教会の姿
Iコリントの集まりに関する記述では、何よりも先に主の晩餐について語られているところを見ると、食事が先だったのかも?
しかも、「主の晩餐」なので、集まり自体が夜だった可能性が高い。
そして集まりの中では、人々がそれぞれに語り、異言で祈られ、預言が語られていたことが記されている。

14:27 だれかが異言で語るのであれば、二人か、多くても三人で順番に行い、一人が解き明かしをしなさい。
14:28 解き明かす者がいなければ、教会では黙っていて、自分に対し、また神に対して語りなさい。
14:29 預言する者たちも、二人か三人が語り、ほかの者たちはそれを吟味しなさい。
14:30 席に着いている別の人に啓示が与えられたら、先に語っていた人は黙りなさい。
14:31 だれでも学び、だれでも励ましが受けられるように、だれでも一人ずつ預言することができるのです。

限られた人たちだけが立って、話している今の教会の姿とはかなり違うことが分かるのではないだろうか?

全ての教会が同じように行われていたわけではないだろうが、昨年皆さんにお知らせした、「紀元1世紀の教会」の中で描かれていた、アキラとプリスカの集まりは、まさにそのような感じだった。

② 女の人は黙っていなさい?
そのような話の延長線上に、このようなことが語られていて、少し混乱が起こる。

14:34 女の人は教会では黙っていなさい。彼女たちは語ることを許されていません。律法も言っているように、従いなさい。
14:35 もし何かを知りたければ、家で自分の夫に尋ねなさい。教会で語ることは、女の人にとって恥ずかしいことなのです。

この直前の箇所には、「だれでも学び、だれでも励ましが受けられるように、だれでも一人ずつ預言することができるのです。(Iコリント14:31)」のに、矛盾するのではないだろうか?
事実、聖書には、旧約新約を問わず、女預言者が出てくる。
それを考慮するならば、女性が神さまの言葉を伝えることが禁じられているのではないことがわかる。
時間を取るわけにはいかないので結論を言うと、ここでのポイントは秩序を守ること。

当時の社会では、女性がリーダーシップを取ることがなかった。
武力が物を言う当時の世界観から考えれば、当然と言えば当然のことかもしれない。
聖書の中では、マルタとマリヤ、プリスキラなど、活躍する女性の姿も出てくるが、誰もリーダーシップを取るポジションでは描かれていない。

総合して考えると、女性の発言自体が禁じられていたわけではなく、最終的な判断は女性ではなく男性に委ねられていたということが分かる。
この箇所で「女性は黙っていなさい」と言われているのは、「預言をする部分」ではなく、「預言を解き明かす」ことに関してだということ。
秩序が乱れ、バラバラになっていたコリントの教会には、こうして社会の価値観や、聖書の記述に合わせて秩序を守ることが必要なことだったのである。

③ 秩序正しく
では、現代の私たちは今日の箇所を通して何を学び、実践することができるだろう?
ここに書かれていることをそのまま適用とするには、そもそも前提となる状況が違っていることを考える必要がある。
先ほども話した通り、この当時の教会の姿と、現代の教会の姿は大きく違うから。

「秩序正しく」ということだけを考えれば、現代の教会は司式代に則り、限られた人だけが権威を与えられ、限られた人だけが神の言葉を伝え、秩序は守られているのかもしれない。
しかし、全ての神の民が機能するということに関してはむしろ、失ってしまっている部分なのかもしれない。
それはもはや「秩序」ではなく、「管理」になってきたから。

新約聖書的教会の姿は、トップダウンで理路整然と秩序を保つようなものではない。
教会は、どちらかというと歴史的にそちらの方向に大きく舵を取ってきたように思う。
大きな組織となり、国に影響を与える規模になろうとするなら、そうしたくなる気持ちもわかる。
しかし、キリスト教会史を省みると、「管理」によって起こる弊害の方が大きかったようにも感じる。

まずは、「それぞれのキリストの体が機能する」という前提があり、「それぞれが意識的に秩序正しく行う」ということが大切なのではないだろうか?
クロスロード・インターナショナル教会は、現時点ではそれなりのバランスを持って進んできていると思う。
しかし、もっと先があるようにも感じる。

ひとりひとりが考えてみて欲しい。
自分は、「キリストの体として機能できているだろうか?」また、「秩序を壊してしまってはいないだろうか?」。
そのためにも、私たちがますます神さまの声に耳を澄ませ、従う者であることができるよう、心から祈りたい。