Iコリント15:1-19 Iコリント34『福音によって立つ』2023/04/23 けんたろ
1コリント 15:1-11
15:1 兄弟たち。私があなたがたに宣べ伝えた福音を、改めて知らせます。あなたがたはその福音を受け入れ、その福音によって立っているのです。
15:2 私がどのようなことばで福音を伝えたか、あなたがたがしっかり覚えているなら、この福音によって救われます。そうでなければ、あなたがたが信じたことは無駄になってしまいます。
15:3 私があなたがたに最も大切なこととして伝えたのは、私も受けたことであって、次のことです。キリストは、聖書に書いてあるとおりに、私たちの罪のために死なれたこと、
15:4 また、葬られたこと、また、聖書に書いてあるとおりに、三日目によみがえられたこと、
15:5 また、ケファに現れ、それから十二弟子に現れたことです。
15:6 その後、キリストは五百人以上の兄弟たちに同時に現れました。その中にはすでに眠った人も何人かいますが、大多数は今なお生き残っています。
15:7 その後、キリストはヤコブに現れ、それからすべての使徒たちに現れました。
15:8 そして最後に、月足らずで生まれた者のような私にも現れてくださいました。
15:9 私は使徒の中では最も小さい者であり、神の教会を迫害したのですから、使徒と呼ばれるに値しない者です。
15:10 ところが、神の恵みによって、私は今の私になりました。そして、私に対するこの神の恵みは無駄にはならず、私はほかのすべての使徒たちよりも多く働きました。働いたのは私ではなく、私とともにあった神の恵みなのですが。
15:11 とにかく、私にせよ、ほかの人たちにせよ、私たちはこのように宣べ伝えているのであり、あなたがたはこのように信じたのです。
つい2週間前にイースターがあったばかりだが、Iコリント15章は復活のことについてガッツリ書かれているところ。
復活についての話はイースターの時すでに話したが、15章を読み進めながら、2週間前に話したことを改めて検証していきたい。
① 福音によって同じところに立つ
この章は、このような言葉で始められている。
15:1 兄弟たち。私があなたがたに宣べ伝えた福音を、改めて知らせます。あなたがたはその福音を受け入れ、その福音によって立っているのです。
15:2 私がどのようなことばで福音を伝えたか、あなたがたがしっかり覚えているなら、この福音によって救われます。そうでなければ、あなたがたが信じたことは無駄になってしまいます。
確認しておきたいが、Iコリントは「誰の教えに従うか」という分裂によってバラバラになってしまったコリントの教会に宛ててパウロが書いた手紙。
現代のキリスト教も、教団教派によってバラバラになってしまっているので、まさに同じような状況にあると言っていい。
そんな教会に、パウロは「あなたたちは一つの福音によって同じところに立っているはずだ」ということを思い出させてくれている。
ここで言われる福音とは、「キリストが聖書にある通り、私たちの罪のために死んでくださったこと」「確かに墓へと葬られたこと」そして、「3日後によみがえったこと」。
これはすべて、旧約聖書の中で約束され、ユダヤ人たちに伝えられていたことだった。
それが本当に起こったということは、多くの弟子たちがその目で見て、経験したこと。
この手紙が書かれたころには、それを経験した人々もたくさん生きていた。
これが私たちの信仰の全てかと言えばそうではないが、全てのクリスチャンに共通するひとつの土台だと言える。
② 復活がない信仰はむなしい
逆に言えば、ここに立っていない人は、洗礼を受け、○○教会の一員となり、どれだけ長く教会に通い、聖書に精通していたとしても、同じところに立ってはいない。
パウロはこのように続けている。
Iコリント 15:12 ところで、キリストは死者の中からよみがえられたと宣べ伝えられているのに、どうして、あなたがたの中に、死者の復活はないと言う人たちがいるのですか。
15:13 もし死者の復活がないとしたら、キリストもよみがえらなかったでしょう。
そういう人たちの中にもいい人たちはいるし、博愛の精神をもって人々のために尽くす立派な人たちもいるが、信仰の前提となる部分が違うのであり、同じところに立つことはできない。
例え、表面的な部分では一緒に働きをすることがあったとしても、私たちは信仰的な面において、そのような人々に惑わされてはならないと思う。
なぜならば、復活のない信仰は虚しいものだからだ。
そういう人たちは、「キリスト教は愛の宗教である」ということを強調する。
それは必ずしも間違ってはいないだろうが、それだけでは決定的に欠けている部分がある。
大切なのは、「創造主である神との関係の回復」だからだ。
創造主である神は愛であり、だから私たちは神と人とを愛するのであって、神のない愛は道徳的には素晴らしくても聖書の本質からは程遠い。
だからこそパウロは、神の愛の証である復活が、何よりも大切なことだとここで力説しているのである。
③ 虚しい信仰?
もしイエス・キリストの復活がなかったら?
第一に、私たちはウソつきであり、命をかけた宣教はムダなものとなる。
Iコリント15:14 そして、キリストがよみがえらなかったとしたら、私たちの宣教は空しく、あなたがたの信仰も空しいものとなります。
第二に、私たちは未だに罪人であり、神との関係は断絶したままだということになる。
Iコリント 15:17 そして、もしキリストがよみがえらなかったとしたら、あなたがたの信仰は空しく、あなたがたは今もなお自分の罪の中にいます。
第三に、私たちはみんな、死んだらそれで終わりということになる。
Iコリント 15:18 そうだとしたら、キリストにあって眠った者たちは、滅んでしまったことになります。
15:19 もし私たちが、この地上のいのちにおいてのみ、キリストに望みを抱いているのなら、私たちはすべての人の中で一番哀れな者です。
それでは、「キリストが復活しなかったら私たちの信仰は虚しいものになるので、キリストが復活したことを頑張って信じていきましょう」という話なのだろうか?
断じて、そうではない。
なぜなら、私たちは今、生きた神との関係をすでに体験しているからだ。
私たちは、神に聞き、神に従って生きることに喜びを持っている。
聖書を通して、祈りを通して、様々な場面で道が拓かれたり、閉ざされたりすることを通して、神さまの導きを受け取っている。
そこにはたくさんの奇蹟が伴い、クリスチャンと同じ数の証があるはずだ。
それは気のせいではなく、紛れもない私たちの体験である。
私たちはなぜ、そんな体験をするのだろう?
それは、私たちの中に復活の命があるからに他ならない。
そして私たちが復活の命を味わうことができるのは、イエス・キリストが私たちの罪を贖い、死を打ち破り、復活した結果起こったことに他ならないのだ。
最初はどうだったにしても、私たちは、「起こったかどうかわからないことをとにかく信じる」という盲目の信仰に立っているのではない。
本当かどうかわからないけれど、死んだらその後本当だったかどうかがやっとわかるような、細い信仰の線の上に立っているのでもない。
確かに起こり、私たちに与えられた良い知らせ、福音によって立っているのだ。
もしも、「自分は確信を持つことができない」と思っている人がいるなら、積極的に神さまに語り掛け、その関係を深めてほしい。
神さまを信じること=信頼することは、それほど難しいことではないことがすぐにわかるはずだ。