Iコリント15:20-28 Iコリント35『復活と神の国の到来』2023/05/07 けんたろ

1コリント 15:20-28
15:20 しかし、今やキリストは、眠った者の初穂として死者の中からよみがえられました。
15:21 死が一人の人を通して来たのですから、死者の復活も一人の人を通して来るのです。
15:22 アダムにあってすべての人が死んでいるように、キリストにあってすべての人が生かされるのです。
15:23 しかし、それぞれに順序があります。まず初穂であるキリスト、次にその来臨のときにキリストに属している人たちです。
15:24 それから終わりが来ます。そのとき、キリストはあらゆる支配と、あらゆる権威、権力を滅ぼし、王国を父である神に渡されます。
15:25 すべての敵をその足の下に置くまで、キリストは王として治めることになっているからです。
15:26 最後の敵として滅ぼされるのは、死です。
15:27 「神は万物をその方の足の下に従わせた」のです。しかし、万物が従わせられたと言うとき、そこには万物をキリストに従わせた方が含まれていないことは明らかです。
15:28 そして、万物が御子に従うとき、御子自身も、万物をご自分に従わせてくださった方に従われます。これは、神が、すべてにおいてすべてとなられるためです。

先週は、メッセージがなく、「復活は自分にとってどんな意味を持っているか?」ということについて、スモールグループで話し合っていただいた。
今回は、復活が私たちにとってどのような意味を持っているかということについてお話ししていきたい。

別に、答え合わせということではなく、個人的な意味を意識しつつも、神さまの目線で見たときに、何のための復活なのかということを考える機会にしてみて欲しい。

① キリストは私たちの初穂
まずは、私たち自身の復活の前にイエスさまの復活について話しておく必要がある。
つまり、イエスさまは、私たちの初穂として復活したということについて。

15:20 しかし、今やキリストは、眠った者の初穂として死者の中からよみがえられました。

これについては、イースターの時にも話しているので、ざっくりとだけ話しておく。
イエスさまは、ユダヤのお祭りである「初穂の祭り」の日に復活した。
それは、イエスさまの復活が初穂(最初に生った穂)となり、キリストに繋がった私たちも、それに続くということを意味している。

② 一人の人を通して
イエスさまの復活が、どうして私たちの復活につながるのかということについて、パウロはこのように話している。

15:21 死が一人の人を通して来たのですから、死者の復活も一人の人を通して来るのです。
15:22 アダムにあってすべての人が死んでいるように、キリストにあってすべての人が生かされるのです。

話を少し複雑にしているのは、「死」の認識が私たちと神さまとの間で認識のギャップがあるということ。
私たちは肉体の死を問題としているが、本当に大切なのはそれ以前にある霊的な死。
霊的な死によって、私たちは本来与えられていた、人としての祝福を失い、この世界も壊れた世界になってしまった。
肉体の死もまた、霊的な死の結果でしかない。

私たちは、信仰によって復活の命が与えられた。
それは霊的な命のことであり、肉体的に死なない体となったわけではない。
とはいえ、新しい、霊的な命を与えられた私たちは、死んだ後もやがて復活し、永遠の時を神さまと共に過ごす。

③ 神の国の到来
しかし、この箇所でパウロが話しているのは、肉体の死と復活について。
新しい霊の命を手にした私たちは、やがて肉体的にも復活するときが来る。
その順番と関連性を理解すると、聖書はもう少し理解しやすくなる。

15:23 しかし、それぞれに順序があります。まず初穂であるキリスト、次にその来臨のときにキリストに属している人たちです。
15:24 それから終わりが来ます。そのとき、キリストはあらゆる支配と、あらゆる権威、権力を滅ぼし、王国を父である神に渡されます。
15:25 すべての敵をその足の下に置くまで、キリストは王として治めることになっているからです。
15:26 最後の敵として滅ぼされるのは、死です。

初穂であるキリストが復活して以降、私たちは信仰によって霊的な命を得ることができるようになった。
霊的な命を得た私たちは、やがて肉体的にも復活するときが来る。
それは、イエスさまがもう一度この地上に戻ってくるときだという。
そして最後には、肉体の死そのものが滅ぼされる。

肝心なのは、肉体の死が霊的な死の結果であるのと同じように、肉体の復活は霊の命が与えられた結果として得られるものだということ。
では、霊的な命はどうやって手にすることができるのか?

正しい人間になることによって…ではない。
なるべく悪いことをしないことによって…でもない。
キリストに属するものとなることによってである。
それはつまり、神の王国の国民となることによってであり、イエスを神とする信仰によってであるということができる。

④ 神の国に生きる
救いの道は、誰の前にも開かれている。
その道を選び、そこに進むなら、全ての人が救いを受け取ることができる。
にもかかわらず、多くの人がその道を選ばないのはなぜだろう?
それは、善悪の知識の木から食べた私たちが、自分を善悪の基準とし、神と対等になったつもりでいるからだ。
「信じた人しか救わないなんて、キリスト教の神は心が狭い」と思ったことはないだろうか?
「我々に服従を求めるなんて傲慢だ」と感じたことはないだろうか?
「背いただけで、こんな人生を送らなければならないなんて理不尽だ」という感覚はないだろうか?
しかし、私たちがそのような価値観の中で生きた結果こそ、私たちが今生きているこの世界なのだ。

神ではない私たちが神になろうとしても、世界はうまく回らない。
私たちが神の国に入るためには、私たちがまず神になろうとすること、王になろうとすることをやめる必要があるのだ。
神を神とするのは、本来当たり前のことだ。
私たちは、今すぐそれを事項することができる。
つかんでいるものを手放すだけだ。
そうすれば、そこに神の国は来ると聖書は教えている。

やがて、神さまが全ての支配を取り戻すときが来る。
その時私たちは、神に従い、神と共にすべてを支配する側に立っているだろうか?
それとも、自分を神とする願いを握りしめて、神に敵対するものとなるのだろうか?
皆さんが、今すぐ神の国に生きるものなることを心から願っている。