ヨブ記2:1-3:3「なぜ、こんな目に会うのか、生まれてこない方がよかった?」-この病、死に至らず-2023/05/14 小西孝蔵

ヨブ記 2:1ある日、また神の子たちが来て、主の前に立った。サタンもまたその中に来て、主の前に立った。 ・・・ 2:4サタンは主に答えて言った、「皮には皮をもってします。人は自分の命のために、その持っているすべての物をも与えます。 2:5しかしいま、あなたの手を伸べて、彼の骨と肉とを撃ってごらんなさい。彼は必ずあなたの顔に向かって、あなたをのろうでしょう」。 2:6主はサタンに言われた、「見よ、彼はあなたの手にある。ただ彼の命を助けよ」。2:7サタンは主の前から出て行って、ヨブを撃ち、その足の裏から頭の頂まで、いやな腫物をもって彼を悩ました。 2:8ヨブは陶器の破片を取り、それで自分の身をかき、灰の中にすわった。 2:9時にその妻は彼に言った、「あなたはなおも堅く保って、自分を全うするのですか。神をのろって死になさい」。 2:10しかしヨブは彼女に言った、「あなたの語ることは愚かな女の語るのと同じだ。われわれは神から幸をうけるのだから、災をも、うけるべきではないか」。すべてこの事においてヨブはそのくちびるをもって罪を犯さなかった。

2:11時に、ヨブの三人の友がこのすべての災のヨブに臨んだのを聞いて、めいめい自分の所から尋ねて来た。すなわちテマンびとエリパズ、シュヒびとビルダデ、ナアマびとゾパルである。彼らはヨブをいたわり、慰めようとして、たがいに約束してきたのである。 2:12彼らは目をあげて遠方から見たが、彼のヨブであることを認めがたいほどであったので、声をあげて泣き、めいめい自分の上着を裂き、天に向かって、ちりをうちあげ、自分たちの頭の上にまき散らした。 2:13こうして七日七夜、彼と共に地に座していて、ひと言も彼に話しかける者がなかった。彼の苦しみの非常に大きいのを見たからである。3:1この後、ヨブは口を開いて、自分の生れた日をのろった。 3:2すなわちヨブは言った、3:3「わたしの生れた日は滅びうせよ。『男の子が、胎にやどった』と言った夜もそのようになれ。

〇ヨハネ11章

 11:2このマリヤは主に香油をぬり、自分の髪の毛で、主の足をふいた女であって、病気であったのは、彼女の兄弟ラザロであった。 11:3姉妹たちは人をイエスのもとにつかわして、「主よ、ただ今、あなたが愛しておられる者が病気をしています」と言わせた。 11:4イエスはそれを聞いて言われた、「この病気は死ぬほどのものではない。それは神の栄光のため、また、神の子がそれによって栄光を受けるためのものである」。

〇ヨハネ15章14~15節

15:14あなたがたにわたしが命じることを行うならば、あなたがたはわたしの友である。 15:15わたしはもう、あなたがたを僕とは呼ばない。僕は主人のしていることを知らないからである。わたしはあなたがたを友と呼んだ。わたしの父から聞いたことを皆、あなたがたに知らせたからである。

「なぜ、こんな目に会うのか、生まれて来なかった方がよかった?」

-この病、死に至らず-(ヨブ記2章1節~3章4節)

(聖書朗読)(祈り)              

  • 始めに

・朝ドラ、爛漫の主人公、牧野富太郎。植物をこよなく愛する世界的な植物学者。「雑草という名の草はない」という彼の言葉は有名。「どんな植物でも天から名前を与えられ、生きる意味がある。」という意味。人生にもたとえられる。小石川植物園で50年も勤務していたので、近くに住む私たちには、身近に感じる(植物園の花の写真参照)。彼は、小さい頃は、病弱でいじめられていた。ドラマの中では、彼がいじめられて自暴自棄になった時、「生まれて来ん方がよかった」と語る

  • 前回の振り返り(言い残したことも含めて)
  • 現代のヨブ(ヨブ記愛読者)

・前回からヨブ記を取り上げているが、多くの人がヨブ記で慰めを得ている。北朝鮮拉致被害者の横田早紀江さんもその一人として知られる。早紀江さんは、娘のめぐみさんが拉致されて、悲しみのどん底にある時に、友人にヨブ記を読むことを勧められ、ヨブ記に感銘を受けて、聖書を読み、入信されたという。

・札幌農学校でクラークの影響を受けて入信した独立伝道者、内村鑑三も不幸のどん底からヨブ記によって立ち直ったとされている((岩波文庫「ヨブ記講演録」)。

  • ヨブの出身と背景(地図)

・ヨブは、ウツの地、エサウの子孫の住むエドムであるという有力説。アラビア半島の北西。アブラハムとハガルの子、イシマエルの子孫の可能性。ヨブ記は、ユダヤ人がアラブ(イスラム)の異邦人である義人ヨブを取り上げて、自分たちのお手本として取り上げた。全世界へのメッセージとなっているのは、興味深い。

  • ヨブの苦難その1

・ヨブ記1章では、サタンは、神の許しを得てヨブを試みる。「理由なくして神を畏れるでしょうか?」、つまり、ヨブの信仰は、ご利益宗教だとサタンは主張した。ヨブは、自分の都合で神を信じているので、病気などの災難に襲われれば、信仰を捨ててしまうはずだと。そこでサタンは、7つの災難をヨブに与える。7つは完全数、これでもか、これだけ災難をぶつければさすがのヨブも降参するだろうとサタンはもくろむ。

・ヨブを襲った7つの災難の4つは、前回紹介したもので、そのうち3回は、7千匹の羊などの財産のすべてを次々に奪われた。そして、4回目の災難では、ついに愛する7人の息子と3人の娘を失った。それでも義人ヨブは、サタンの試みに屈しなかった。「裸で母の胎を出て裸でかしこに帰る。主が与え、主が取られたのだ。主のみ名は、ほむべきかな」(ヨブ記1章21節)と。

3.本日の箇所-ヨブの苦難その2

① 5番目の災難が腫物。サタンは、主から「見よ、彼はあなたの手にある。ただ彼の命を助けよ」と命じられた。サタンは、その命令の範囲でヨブを試みる。ハンセン病ともいわれているが、重い皮膚病。ヨブ記2章「2:7サタンは主の前から出て行って、ヨブを撃ち、その足の裏から頭の頂まで、いやな腫物をもって彼を悩ました。 2:8ヨブは陶器の破片を取り、それで自分の身をかき、灰の中にすわった」。

② 6番目の災難が妻の離反。2章「 2:9時にその妻は彼に言った、「あなたはなおも堅く保って、自分を全うするのですか。神をのろって死になさい」-これに対し、ヨブは、「われわれは神から幸をうけるのだから、災をも、うけるべきではないか。すべてこの事においてヨブはそのくちびるをもって罪を犯さなかった。」(10節)

・私だったら、家内からこんな言葉を掛けられたら、生きていけない。ヨブにとっては、それでも、持ちこたえられるくらい忍耐の人であった。

 

  • 7番目の災難が、遠方から見舞いに来た3人の友とヨブの失望・絶望

・エリファズ(エドムの一地方であるテマン出身、エサウの子孫と考えられる)、ビルダテ(アブラハムの子孫)、ゾファル(アブラハムの一族)彼らは、ヨブの変わり果てた姿に驚いて無言、ヨブに対して真の友として寄り添うことができなかった。

・ヨブは、こう言った。「3:1この後、ヨブは口を開いて、自分の生れた日をのろった。 3:2すなわちヨブは言った、3:3「わたしの生れた日は滅びうせよ。『男の子が、胎にやどった』と言った夜もそのようになれ。」(ヨブ記3章1~3節)。

・ついに、サタンの思惑通り、ヨブは自暴自棄に落ちいった。ヨブは、自分は生まれて来ない方がよかったと嘆くに至った。朝ドラの牧野富太郎の言葉で言うと、「生まれて来ん方がよかった」。しかしながら、ヨブは、自分の生を呪ったものの、神を呪うことはしなかった。ここが大事。どんなことがあっても、神様への信頼関係は捨てないこと。

 

4.本日の箇所から学んだこと

1)第一に、真の友となることの難しさ

・災難に苦しむ友に心から寄り添えるか?難しいこと。特に、災難にあった友人にどう言葉を掛けたらいいのか迷う。自分の体験や信仰を押し付けていないか?泣くものと共に泣き、喜ぶものと共に喜んでいるか?もっとも必要なものは、神様の助けを求める祈りである。これは、自分の反省でもある。

 

2)第二に、最終的には、人は頼りにならない

・ヨブも家族や友人に期待しすぎていなかったか?人はあてにならないもの。私たちも悩みを友人に打ち明けて問題の解決に至ることももちろんあるが、苦難の意味を自分で得心するまでは、完全には立ち直れない。祈りによって、神様の直接の関係に立たない限り、本当の解決にならない。

・私の父は、戦後まもなく、結核で倒れ10数年3人の妻子をかかえて闘病生活。当時は、周りの多くの人が亡くなったし、不治の病と言われていた。コロナ以上に深刻だった。人と会うこともままならず、孤独を強いられた。その中で、自分自身が聖書に出会い、神様に触れ、キリスト者に変えられた。

 

3)三番目は、真の友、仲介者イエスを見上げることが救いの道

・ヨブは、3人の友人と論争をし始めた。何故、こんな目に合うのか、災難の意味が分からない。ヨブは、友人との再開や論争からは救いを得られず、絶望するだけ。その長い論争と解決の道は次回以降に譲りたい。

・結論を先取りすると、真の友はイエス様。ヨブは、仲介者(9章以降に出てくるmediator )を必要とした。ヨブの時代には、キリストはまだ、地上に来られていなかったが、ヨブは、真の友なるイエス、仲介者であり、贖い主なるキリストを必死で求め、神様との関係の回復を強く願っていた(次回に詳しく紹介。)。

〇ヨハネ15章15節「 わたしはもう、あなたがたを僕とは呼ばない。僕は主人のしていることを知らないからである。わたしはあなたがたを友と呼んだ。わたしの父から聞いたことを皆、あなたがたに知らせたからである。」

・先ほど歌って頂いた讃美歌312番には。「(2番」いつくしみ深き、友なるイエスは、・・・悩み悲しみに、沈めるときも祈りに応えて慰め給わん。(3番)世の友我らを捨て去る時も祈りに応えて労わり給わん」とある。

 

災難の意味は、人間の目には、すぐには分からないが、キリストが側にいてその意味を教えてくれる。イエスは、ラザロの復活の奇跡を行う前に、こう言われた。

〇ヨハネ11章「11:1さて、ひとりの病人がいた。ラザロといい、マリヤとその姉妹マルタの村ベタニヤの人であった。 ・・・  11:4イエスはそれを聞いて言われた、「この病気は死ぬほどのものではない。それは神の栄光のため、また、神の子がそれによって栄光を受けるためのものである」。

・死に至るような重い病気にかかることは、大きなショックであり、何故このような目に会うのか分からなくなる。その時にこそ、神の子キリストが私たちと神様との間の仲介者、贖い主として、私たちの側に立ってくださる。

・そして、キリストは、「この病、死に至らず、神の栄光のため」といって、苦難から脱出する道を備えて下さる。死に至らずというのは、肉体の死に至らないという意味だけではなく、たとえ肉体が滅んでも、霊のからだに復活するという宣言でもある。友なるイエス、贖い主、復活のキリストこそが、あらゆる嘆き、苦しみを感謝に変えて下さるのだ。        (祈り)