Iコリント15:29-34 Iコリント36「復活のない信仰に意味はない」2023/05/21 けんたろ
1コリント 15:29-34
15:29 そうでなかったら、死者のためにバプテスマを受ける人たちは、何をしようとしているのですか。死者が決してよみがえらないのなら、その人たちは、なぜ死者のためにバプテスマを受けるのですか。
15:30 なぜ私たちも、絶えず危険にさらされているのでしょうか。
15:31 兄弟たち。私たちの主キリスト・イエスにあって私が抱いている、あなたがたについての誇りにかけて言いますが、私は日々死んでいるのです。
15:32 もし私が人間の考えからエペソで獣と戦ったのなら、何の得があったでしょう。もし死者がよみがえらないのなら、「食べたり飲んだりしようではないか。どうせ、明日は死ぬのだから」ということになります。
15:33 惑わされてはいけません。「悪い交際は良い習慣を損なう」のです。
15:34 目を覚まして正しい生活を送り、罪を犯さないようにしなさい。神について無知な人たちがいます。私はあなたがたを恥じ入らせるために言っているのです。
15章は全体を通して復活の話にフォーカスが当てられて進んできている。
しかし、第一コリントへの手紙のテーマともちゃんと合流していくので、もう少し辛抱して復活の話にお付き合いいただきたい。
前回までのところで、どうしてキリストが復活し、それが私たちにとってどんな意味があるのかという話をしてきた。
復活とは、罪の呪いを打ち破ることであり、私たちが失った神さまとの関係と、永遠のいのちを受けるということ。
今回もその続きである。
① 死者のためのバプテスマ!?
今回は、少し不思議な話から入っている。
15:29 そうでなかったら、死者のためにバプテスマを受ける人たちは、何をしようとしているのですか。死者が決してよみがえらないのなら、その人たちは、なぜ死者のためにバプテスマを受けるのですか。
コリントの教会では、どうやら「死者のためにバプテスマを受ける」ということが行われていたようだ。
死者のためのバプテスマは他のところには出てこないため、これが実際にはどのようなものだったかは分からない。
恐らくは、バプテスマを受けずに死んだ人たちのことが心配になり、彼らの代理としてバプテスマを受けるというようなことがされていたのだろう。
これは、イエスさまが宣べ伝えていたことでもないし、決しての私たちもするべきことというものではない。
ここでのポイントは、「彼らが死者のためにバプテスマを受けようと思ったのは、バプテスマを受けていない家族や友人たちが復活するかどうか心配だったからだ」ということ。
復活がないと信じしているなら、死者は単なる死者であり、彼らのことを心配する必要はないはずだ。
② いのちを失うものがそれを得る
続けてこのように書いている。
15:30 なぜ私たちも、絶えず危険にさらされているのでしょうか。
15:31 兄弟たち。私たちの主キリスト・イエスにあって私が抱いている、あなたがたについての誇りにかけて言いますが、私は日々死んでいるのです。
15:32 もし私が人間の考えからエペソで獣と戦ったのなら、何の得があったでしょう。
この当時、クリスチャンであるということで死に直面するようなこともあった。
もし復活がないなら、それは死に直面してまで守る価値のあるものだろうか?
もしよみがえりがないのなら、それは私たちの罪が赦されてはいないということになる。
あるいは、聖書が嘘を教えているということであり、神さまは私たちが信じているような存在ではないということにもなる。
それなら、そもそもそこに信じる価値はあるのだろうか?
そんなによみがえりたいのか、と言われれば、別にそういうわけではないかもしれない。
正直に言えば、僕自身も永遠の命が信じた目的ではない。
逆に言えば、「永遠の命が欲しいから信じる」というのでは結局自分が中心で、本来あるべき信仰とは違うような気もする。
地獄に行きたくないから信じたわけではなく、イエスさまが大好きであり、神さまと共に歩みたいからクリスチャンになったということの方が真っ当な信仰だと思う。
でも、だから「復活はなくてもいい」という話にはならない。
なぜなら、復活は罪が赦されたことのしるしだから。
復活がないなら、私たちの罪は赦されていないのだ。
復活がないなら、私たちと神さまの関係は何も修復されていないのだ。
復活がないなら、私たちは古い肉としての自分のままであり、新しい自分として生きることなんてできないのだ。
キリストの復活とは、私たちの罪が贖われて、死という呪いが打ち破られたことを意味しているのだから。
③ 復活信仰
私たちが新しい自分とされていないなら、新しい価値観を持ち、新しい自分として生きていくことなんて幻想でしかない。
パウロがこのように言うとおりである。
15:32b もし死者がよみがえらないのなら、「食べたり飲んだりしようではないか。どうせ、明日は死ぬのだから」ということになります。
ここでパウロの手紙は、最初のテーマへと戻る。
コリントのクリスチャンたちがなぜバラバラになり、好き勝手な行動をしてしまうのか?
クリスチャンだと言いながら、信仰のない人たちと同じような価値観で、不倫をし、派閥争いをし、自己中心的な生き方でいるのはなぜか?
結論を言えば、そこに復活信仰がないから。
言ってみれば、それが宗教の限界であり、成れの果てなのだ。
そのような人たちに関して、パウロはこのように言っている。
15:33 惑わされてはいけません。「悪い交際は良い習慣を損なう」のです。
15:34 目を覚まして正しい生活を送り、罪を犯さないようにしなさい。神について無知な人たちがいます。私はあなたがたを恥じ入らせるために言っているのです。
道徳的な宗教としてのキリスト教は、人を根本的に変えることはできない。
そこには正しさや愛があるようで、自分を中心とした、言わば善悪の知識の木から取って食べた私たちの持つ、自己中的な善や愛でしかない。
それは、他にたくさんある宗教と何も変わらない。
よく、「どの宗教も言っていることは結局同じですよね?」と言われるが、それはまさにこのようなキリスト教信仰なのだと思う。
それが、コリントのクリスチャンたちの正体なのかもしれない。
そして、現代の多くのクリスチャン、私たちにも同じようなことが言えるのかもしれない。
そう考えてみると、私たちの課題も見えてくる。
それは、「もっとがんばって伝道しよう」とか、「善い行いをしましょう」ということではなく、聖書が教えている「新しい命」に生きるということだ。
それは、古い自分に死ぬということも意味している。
ルカ 9:24 自分のいのちを救おうと思う者はそれを失い、わたしのためにいのちを失う者は、それを救うのです。
ローマ 6:6 私たちは知っています。私たちの古い人がキリストとともに十字架につけられたのは、罪のからだが滅ぼされて、私たちがもはや罪の奴隷でなくなるためです。
復活信仰に生きよう。