Ⅰコリント15:35-49 Ⅰコリント37『死者はどのようにしてよみがえるのか』 2023/05/28 けんたろ

1コリント 15:35-49
15:35 しかし、「死者はどのようにしてよみがえるのか。どのようなからだで来るのか」と言う人がいるでしょう。
15:36 愚かな人だ。あなたが蒔くものは、死ななければ生かされません。
15:37 また、 あなたが蒔くものは、後にできるからだではなく、麦であれ、そのほかの穀物であれ、ただの種粒です。
15:38 しかし神は、みこころのままに、それにからだを与え、それぞれの種にそれ自身のからだをお与えになります。
15:39 どんな肉も同じではなく、人間の肉、獣の肉、鳥の肉、魚の肉、それぞれ違います。
15:40 また、天上のからだもあり、地上のからだもあり、天上のからだの輝きと地上のからだの輝きは異なり、
15:41 太陽の輝き、月の輝き、星の輝き、それぞれ違います。星と星の間でも輝きが違います。
15:42 死者の復活もこれと同じです。朽ちるもので蒔かれ、朽ちないものによみがえらされ、
15:43 卑しいもので蒔かれ、栄光あるものによみがえらされ、弱いもので蒔かれ、力あるものによみがえらされ、
15:44 血肉のからだで蒔かれ、御霊に属するからだによみがえらされるのです。血肉のからだがあるのですから、御霊のからだもあるのです。
15:45 こう書かれています。「最初の人アダムは生きるものとなった。」しかし、最後のアダムはいのちを与える御霊となりました。
15:46 最初にあったのは、御霊のものではなく血肉のものです。御霊のものは後に来るのです。
15:47 第一の人は地から出て、土で造られた人ですが、第二の人は天から出た方です。
15:48 土で造られた者たちはみな、この土で造られた人に似ており、天に属する者たちはみな、この天に属する方に似ています。
15:49 私たちは、土で造られた人のかたちを持っていたように、天に属する方のかたちも持つことになるのです。

① 死者はどのようによみがえるのか
これまで見てきたように、コリントの教会では復活を信じる人が少なかったようだ。

15:35 しかし、「死者はどのようにしてよみがえるのか。どのようなからだで来るのか」と言う人がいるでしょう。

この言葉を読んで思い出すのは、福音書の中に出てくる「レビラート婚によって7人の兄弟と結婚した女は、復活した後は誰の妻になるのか?」と質問したサドカイ人を思い出す(マルコ12:19-27)。

もしかすると、コリントの教会ではサドカイ派ユダヤ教徒の影響が強かったのかもしれない。

サドカイ派は、パリサイ派と並んで知られるユダヤ教の一派で、構成メンバーの大半は貴族や祭司だった。
彼らはモーセ五書だけを聖書と認めていた。
教育レベルは高かったが、学問を習得することに熱心で、奇跡や復活などの不思議な出来事は信じていなかった。

現代の教会も、この時のコリントのクリスチャンたちと同じ問題を抱えている。
科学や常識が、聖書を信じられなくしてしまうという問題である。
パウロはそのような人々に、「愚かな人」と言い放っている。

15:36a 愚かな人だ。

私たちは知恵を得て、知識を得て、古代人よりも賢くなったと考えている。
しかし、賢くなったつもりが、実際には愚かになってしまっているのかもしれない。

② 新しいものとしてよみがえる
その疑問に対して、パウロはこのように説明している。

15:36b あなたが蒔くものは、死ななければ生かされません。
15:37 また、 あなたが蒔くものは、後にできるからだではなく、麦であれ、そのほかの穀物であれ、ただの種粒です。

一粒の麦が蒔かれるときは、地に落ちて死んだように見える。
しかし、そこから新しい命が芽生え、新しい麦となる。
復活もそれと同じようなもので、死んだ私たちがそのまま生き返るのではない。

死んだ麦と新しく芽生える麦は、同じものでもあり、まったく別の新しいものでもある。
それと同じように、私たちも死んで復活した時には全く新しい私たちとして新しい命を得るのだ。

15:42 死者の復活もこれと同じです。朽ちるもので蒔かれ、朽ちないものによみがえらされ、
15:43 卑しいもので蒔かれ、栄光あるものによみがえらされ、弱いもので蒔かれ、力あるものによみがえらされ、
15:44 血肉のからだで蒔かれ、御霊に属するからだによみがえらされるのです。血肉のからだがあるのですから、御霊のからだもあるのです。

私たちが死ぬときに持っているのは「血肉のからだ」であり、よみがえるときには「御霊に属するからだ」となる。
その理屈は、たぶん私たちには分からないし、解る必要はないのだと思う。

明確にされているのは二つのこと。
「神さまに不可能はない」ということと、「私たちは、今までとは違う新しいからだで復活するのだ」ということ。

③ 血肉のからだと霊のからだ
ここでは古い「血肉のからだ」と新しい「霊のからだ」という分け方がされている。
一つ確認しておきたいのは、今私たちが持っているのは「血肉のからだ」ではあるけれど、私たちの中にはすでに、新しい「霊のいのち」が入っているということ。

私たちのためにイエス・キリストが十字架にかかって罪を買い取り、復活した。
私たちは、そのキリストに繋がる信仰を通して聖霊を得て、すでに新しい命が始まっているのだ。

15:45 こう書かれています。「最初の人アダムは生きるものとなった。」しかし、最後のアダムはいのちを与える御霊となりました。
15:46 最初にあったのは、御霊のものではなく血肉のものです。御霊のものは後に来るのです。
15:47 第一の人は地から出て、土で造られた人ですが、第二の人は天から出た方です。
15:48 土で造られた者たちはみな、この土で造られた人に似ており、天に属する者たちはみな、この天に属する方に似ています。
15:49 私たちは、土で造られた人のかたちを持っていたように、天に属する方のかたちも持つことになるのです。

私たちはみんな、最初のアダムによって血肉に属する、また土に属するからだと魂を持っている。
しかし、新しい命は第二の人イエス・キリストによって与えられた、
天に属するからだはやがて与えられるものだが、天に属するものである霊は、すでに与えられている。
これは、私たちがすでに、新しい者として生き始めていることを意味している。
パウロが別の手紙でこのように書いている通り。

IIコリント5:17 ですから、だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。

多くのクリスチャンが、肉体の死があるまでは罪人のままだというアイデンティティを持っているので、なかなか新しい自分として生き始めることができない。
いつまでも罪の性質に縛られたまま、罪人として生きようとしている。

でも、私たちはすでに、「天に属している」ということを知ってほしい。
「実感が湧かない」という気持ちもわかるけれど、新しい命を持つ人としてのアイデンティティは、クリスチャンにとって大切なものだと思う。
私たちは、今天に属しているからこそ、やがて天に属するものの形を持つことになると約束されているのだから。