Ⅰコリント16:13-24 Ⅰコリント40『主を愛さないものはのろわれよ』 2023/06/18 けんたろ

1コリント 16:13-24
16:13 目を覚ましていなさい。堅く信仰に立ちなさい。雄々しく、強くありなさい。
16:14 一切のことを、愛をもって行いなさい。
16:15 兄弟たちよ、あなたがたに勧めます。ご存じのとおり、ステファナの一家はアカイアの初穂であり、聖徒たちのために熱心に奉仕してくれました。
16:16 あなたがたも、このような人たちに、また、ともに働き、労苦しているすべての人たちに従いなさい。
16:17 ステファナとポルトナトとアカイコが来たので、私は喜んでいます。あなたがたがいない分を、彼らが埋めてくれたからです。
16:18 彼らは、私の心とあなたがたの心を安らがせてくれました。このような人たちを尊びなさい。
16:19 アジアの諸教会がよろしくと言っています。アキラとプリスカ、また彼らの家にある教会が、主にあって心から、あなたがたによろしくと言っています。
16:20 すべての兄弟たちが、あなたがたによろしくと言っています。聖なる口づけをもって互いにあいさつを交わしなさい。
16:21 私パウロが、自分の手であいさつを記します。
16:22 主を愛さない者はみな、のろわれよ。主よ、来てください。
16:23 主イエスの恵みが、あなたがたとともにありますように。
16:24 私の愛が、キリスト・イエスにあって、あなたがたすべてとともにありますように。

ついに、第一コリントの最終回。
あいさつの言葉も熱が加わり、佳境に入ってくる。

① 目を覚ましていなさい

16:13 目を覚ましていなさい。堅く信仰に立ちなさい。雄々しく、強くありなさい。

「目を覚ましていなさい」はイエスさまも言っていたことであり、「強くあれ、雄々しくあれ、堅く信仰に立ちなさい」はモーセを通してヨシュアやイスラエルに対して伝えられた旧約聖書にあることば。

惰性でクリスチャンをやっているのではなく、しっかりと意識して、神さまとの関係に生きなさいということ。
私たちは、すぐに惰性で生きてしまう傾向があるので、時にはこのような叱咤激励が必要なのだと思う。
そして、パウロはさらにこのように続ける。

16:14 一切のことを、愛をもって行いなさい。

パウロがこのように書いているのは、コリントの教会にはこれらのことが欠けていたから。
彼らは惰性の信仰に陥り、愛ではなく打算で信仰生活を送っていたのだと思う。
私たちも、この言葉を受けて、目を覚まそう。

② 聖なる口づけをもって
終盤にかけて、コリントにゆかりのある人たちのあいさつが入る。

ステファナの一家はアカイアの初穂と言われている。
アカイアというのは、コリントがあったギリシアの地域。
半島状になっているギリシアの先端部分にあたる。

パウロたちが福音を宣べ伝えるためにギリシアを訪れたとき、ステファナの一家が最初に信仰を持った家庭だった。

パウロのところには、ステファナの他にもポルトナトとアカイコが来て手伝ってくれたことを、パウロは感謝している。
このような人たちは、分裂したり、不品行に走るような人たちではなく、忠実に仕えようとする人たちだったので、「彼らに従い、尊ぶように」とパウロは伝えている。

さらに、アジアの諸教会、アクラとプリスカのことについても触れている。
聖書で言うアジアとは、小アジアのことであり、現代のトルコのあたりを指している。
今パウロがいるエペソも小アジアにある。
コリントでパウロやアポロとともに活動していたアクラとプリスカ夫妻も、今はアジアの方にいることがわかる。

16:20 すべての兄弟たちが、あなたがたによろしくと言っています。聖なる口づけをもって互いにあいさつを交わしなさい。

ここに記されている、「聖なる口づけ」とは何だろう?
当時の文化では、家族との間で不通に行われていた挨拶。
現代は行われていないことではあるが、私たちはここからメッセージを受け取り、自分自身に適用することもできる。
それは、主にある兄弟姉妹とは、まさに家族のような関係を築いていくということ。

家族関係にもいろいろだし、現代の日本には家族にだけ行うようなあいさつのかたちというのはないかもしれないが、だからこそ、私たちがどのように実践していくことができるか、考えてみてもいいかもしれない。

③ パウロの手記
最後に、パウロはこのように書いている。

16:21 私パウロが、自分の手であいさつを記します。

つまり、これ以外の部分はパウロの直筆ではなかったということを意味している。
最後に、自分の手で書いた言葉によってその誠意を伝えたかったのだと思う。

当時の、例えば貴族のような人たちの間では、手紙を書くときに口述筆記することは当たり前のことではあった。
しかし、パウロは貴族だったわけでもないので、これを「パウロが目の病気だったことを表す証拠のひとつ」として挙げる人もいる。
真偽のほどは定かではないが、十分にありうることだとも思う。
だとすれば、この後の部分だけは、パウロが苦労しながら、他のところとは違う大きな文字で記されていたのかもしれない。

不自由しながらがんばって書いたのだとすれば、パウロの熱い思いは尚更相手の心に響いたことだろうと思う。
とは言え、ここでパウロが書いた一言は強烈な言葉だった。

16:22 主を愛さない者はみな、のろわれよ。主よ、来てください。

現代の社会であれば、この一言だけで炎上しかねない。
実際に、読んでいて反感を持つ人は現代に多いのではないだろうか?
パウロが言っているから、我々も同じように言うべきかというと、いささか疑問ではある。

しかし、パウロのこの言葉には、パウロの本気度が見えたりもする。
「いいよいいよ」ではない。
「クリスチャンでありながら、主を愛さないなら、もう一度罪ののろいの中に戻ってしまえばいい」そんな思いかもしれない。

しかし、ちゃんとフォローもしている。

16:22b 主よ、来てください。
16:23 主イエスの恵みが、あなたがたとともにありますように。
16:24 私の愛が、キリスト・イエスにあって、あなたがたすべてとともにありますように。

イエスさまの恵みが、私たちとともにある。
そこに、私たちの希望があるのだ。