IIコリント 1:12-24 IIコリント2「『はい』か『いいえ』か」 2023/07/02 けんたろ

2コリント 1:12-24
1:12 私たちが誇りとすること、私たちの良心が証ししていることは、私たちがこの世において、特にあなたがたに対して、神から来る純真さと誠実さをもって、肉的な知恵によらず、神の恵みによって行動してきたということです。
1:13 14 私たちは、あなたがたが読んで理解できること以外は何も書いていません。あなたがたは、私たちについてすでにある程度理解しているのですから、私たちの主イエスの日には、あなたがたが私たちの誇りであるように、私たちもあなたがたの誇りであることを、完全に理解してくれるものと期待しています。
1:14 【前節に統合】
1:15 この確信をもって、私はまずあなたがたのところを訪れて、あなたがたが恵みを二度得られるようにと計画しました。
1:16 すなわち、あなたがたのところを通ってマケドニアに赴き、そしてマケドニアから再びあなたがたのところに帰り、あなたがたに送られてユダヤに行きたいと思ったのです。
1:17 このように願った私は軽率だったのでしょうか。それとも、私が計画することは人間的な計画であって、そのため私には、「はい、はい」は同時に「いいえ、いいえ」になるのでしょうか。
1:18 神の真実にかけて言いますが、あなたがたに対する私たちのことばは、「はい」であると同時に「いいえ」である、というようなものではありません。
1:19 私たち、すなわち、私とシルワノとテモテが、あなたがたの間で宣べ伝えた神の子キリスト・イエスは、「はい」と同時に「いいえ」であるような方ではありません。この方においては「はい」だけがあるのです。
1:20 神の約束はことごとく、この方において「はい」となりました。それで私たちは、この方によって「アーメン」と言い、神に栄光を帰するのです。
1:21 私たちをあなたがたと一緒にキリストのうちに堅く保ち、私たちに油を注がれた方は神です。
1:22 神はまた、私たちに証印を押し、保証として御霊を私たちの心に与えてくださいました。
1:23 私は自分のいのちにかけ、神を証人にお呼びして言います。私がまだコリントへ行かないでいるのは、あなたがたへの思いやりからです。
1:24 私たちは、あなたがたの信仰を支配しようとする者ではなく、あなたがたの喜びのために協力して働く者です。あなたがたは信仰に堅く立っているのですから。

コリント人への手紙第二は、第一の手紙の後、パウロがコリントを訪れたときから起こっていた様々な問題を正すための書かれた手紙です。

そこにあった一つの問題は、コリントのクリスチャンたちの中にアンチパウロの考えを持つ人たちが入り込んだということでした。
パウロは、コリントのクリスチャンたちとの関係の回復をはかり、手紙の中でいくつもの弁明をしています。

パウロに反対する人たちの考え方を探りながら、今回の箇所の意味を一緒に考えていきましょう。

① 肉的な知恵によらず、神の恵みによって
12節でパウロが記しているのは、「私は、自分の意志や思いよりも、神さまの導きを中心に行動をしてきた」ということです。

1:12 私たちが誇りとすること、私たちの良心が証ししていることは、私たちがこの世において、特にあなたがたに対して、神から来る純真さと誠実さをもって、肉的な知恵によらず、神の恵みによって行動してきたということです。

パウロがなぜこのような話をしているのかというと、アンチパウロの人々の言説の中に、「パウロは自分が言ったことも守らない嘘つきだ」というようなことが言われていたからです。

もう一度、第一コリントの16章で記されていたことを思い出してみましょう。

Iコリント16:5 私はマケドニアを通って、あなたがたのところへ行きます。マケドニアはただ通過し、
16:6 おそらく、あなたがたのところに滞在するでしょう。冬を越すことになるかもしれません。どこに向かうにしても、あなたがたに送り出してもらうためです。

パウロは、マケドニアを通ってコリントに行くと書かれています。
ところが実際には、マケドニアとは別のルートでコリントに来ることになりました。
むしろコリントを通ってマケドニアに行き、そしてもう一度コリントに帰ってきたのです。

1:15 この確信をもって、私はまずあなたがたのところを訪れて、あなたがたが恵みを二度得られるようにと計画しました。
1:16 すなわち、あなたがたのところを通ってマケドニアに赴き、そしてマケドニアから再びあなたがたのところに帰り、あなたがたに送られてユダヤに行きたいと思ったのです。

「見てください。最初の手紙と言っていることと矛盾している。こんな人物の言うことを、どうして信用できるでしょうか!」それが、アンチパウロ派の主張です。
正直、「どうでもいいわ」と思うようなことですが、反対する人たちは小さなことを大きいことであるかのように主張し、攻撃してきます。
パウロはこれに対して、弁明しなければならない状況だったのです。

パウロの主張はシンプルでした。
「世の中、私たちの思い通りにいかないことがある。しかし大切なのは、私たちがそんなときにも神の恵みによって、神に導かれて行動をしてきたということだ」

計画通りに行うことが大切なこともあります。
でも、その通りにいかないことは多いのではないでしょうか。
そんなときに私たちは、「神の恵み」によって行動しているのだということを思い出したいものですね。

② 「はい」と「いいえ」
この後、「はい」と「いいえ」という言葉が入り乱れ、少し意味が分かりにくくなると思います。
分かりやすく言い換えながら、この部分を見ていきましょう。

1:17 このように願った私は軽率だったのでしょうか。それとも、私が計画することは人間的な計画であって、そのため私には、「はい、はい」は同時に「いいえ、いいえ」になるのでしょうか。

「このように」というのは、マケドニアの前にコリントに行って、その後のマケドニアに寄ってから、もう一度コリントに来ると計画したことです。
「これによって、私が『こうしよう』ということは、『しないでおこう』という意味になりますか? 私の言動は全てにおいてさかさまだというのでしょうか」

1:18 神の真実にかけて言いますが、あなたがたに対する私たちのことばは、「はい」であると同時に「いいえ」である、というようなものではありません。
1:19 私たち、すなわち、私とシルワノとテモテが、あなたがたの間で宣べ伝えた神の子キリスト・イエスは、「はい」と同時に「いいえ」であるような方ではありません。この方においては「はい」だけがあるのです。
1:20 神の約束はことごとく、この方において「はい」となりました。それで私たちは、この方によって「アーメン」と言い、神に栄光を帰するのです。

この辺りも、書いてあることは複雑で意味が分かりにくいですが、パウロのポイントはシンプルです。
それは、「私たちには計画通りではなく、言ったことと矛盾するようなことはたくさんあるけれど、神さまの目には道が一つだ」ということです。

箴言の中にはこのような言葉があります。

箴言 19:21 人の心には多くの思いがある。しかし、【主】の計画こそが実現する。

また、「神さまのなさることはすべて、時にかなって美しい(伝道者3:11)」のです。

これは、成り行き任せということではありません。
私たちは、どれほど自分が「こうしたい」と思うことがあっても、それを手放さなければならない時があります。
そして、どれだけ周りの人たちが、「やめるべきだ」と言うことがあっても、神さまが示すなら、その通りに従う必要があるのです。

使徒の働きの終盤、エルサレムに向かうパウロはまさにそのような状況でした。
「エルサレムに行けば殺される。行くべきではない」と多くの人たちが言いました。
しかしパウロは、自らの願いや計画ではなく、神さまの御心に従って、その道を進み、最期を迎えることになったのです。

思い通りにならない時、そのことを嘆かないでください。
その背後には、きっとより良い神さまの計画があるからです。
大切なのは、私たちが神さまの声に耳を傾けることです。
自分の思いではなく、人の願いでもなく、神さまの御心を求める時、そこに神の国があるのです。