IIコリント 2:1-11 IIコリント3 『責めることと赦すこと』2023/07/09 けんたろ

IIコリント 2:1-11
2:1 そこで私は、あなたがたを悲しませる訪問は二度としない、と決心しました。
2:2 もし私があなたがたを悲しませるなら、私が悲しませているその人以外に、だれが私を喜ばせてくれるでしょう。
2:3 あの手紙を書いたのは、私が訪れるときに、私に喜びをもたらすはずの人たちから、悲しみを受けることがないようにするためでした。私の喜びがあなたがたすべての喜びであると、私はあなたがたすべてについて確信しています。
2:4 私は大きな苦しみと心の嘆きから、涙ながらにあなたがたに手紙を書きました。それは、あなたがたを悲しませるためではなく、私があなたがたに対して抱いている、あふれるばかりの愛を、あなたがたに知ってもらうためでした。
2:5 もしある人が悲しみをもたらしたのなら、その人は私を悲しませたのではありません。むしろ、言い過ぎにならないように言えば、ある程度まで、あなたがたすべてを悲しませたのです。
2:6 その人にとっては、すでに多数の人から受けたあの処罰で十分ですから、
2:7 あなたがたは、むしろその人を赦し、慰めてあげなさい。そうしないと、その人はあまりにも深い悲しみに押しつぶされてしまうかもしれません。
2:8 そこで私はあなたがたに、その人へのあなたがたの愛を確認することを勧めます。
2:9 私が手紙を書いたのは、あなたがたがすべてのことにおいて従順であるかどうか、試すためでした。
2:10 あなたがたが何かのことで人を赦すなら、私もそうします。私が何かのことで赦したとすれば、あなたがたのために、キリストの御前で赦したのです。
2:11 それは、私たちがサタンに乗じられないようにするためです。私たちはサタンの策略を知らないわけではありません。

コリント人への手紙第二は、第一の手紙の後、パウロがコリントを訪れたときから起こっていた様々な問題を正すための書かれた手紙。

そこにあった一つの問題は、コリントのクリスチャンたちの中にアンチパウロの考えを持つ人たちが入り込んだということ。
パウロは、コリントのクリスチャンたちとの関係の回復をはかり、手紙の中でいくつもの弁明をしている。

前回は、「パウロが第一の手紙で書いていたことと違うことをした」と言う人々に対して、パウロは「大切なのは私たちの計画ではなく、神さまの計画だ」と答えていた。
今回はその続き。
1節ずつの言葉を簡単に解説する方法を取っていこうと思う。

2:1 そこで私は、あなたがたを悲しませる訪問は二度としない、と決心しました。

これは、かつてコリントのクリスチャンたちを悲しませる訪問したことを意味している。
その訪問とは、第一の手紙を書いた後、コリントを訪れたときのこと。
現時点では、この手紙のあと、もう一度コリントを訪れるつもりでいるが、それが彼らを悲しませることになるならもう訪れることはないと表明しているように聞こえる。

2:2 もし私があなたがたを悲しませるなら、私が悲しませているその人以外に、だれが私を喜ばせてくれるでしょう。

ややこしい言い方だが、「あなたが悲しめば私も悲しいし、あなたが喜ぶことが私の喜びでもある」ということ。

2:3 あの手紙を書いたのは、私が訪れるときに、私に喜びをもたらすはずの人たちから、悲しみを受けることがないようにするためでした。私の喜びがあなたがたすべての喜びであると、私はあなたがたすべてについて確信しています。

「あの手紙」とは「第一の手紙」。
パウロがコリントを訪れる前に、問題がある程度解決した状態になっていて欲しかった。
酷い状態になっているコリントの教会を、パウロは見たくなかったから。
悲しみも喜びも、互いに共有されていることがわかる。

2:4 私は大きな苦しみと心の嘆きから、涙ながらにあなたがたに手紙を書きました。それは、あなたがたを悲しませるためではなく、私があなたがたに対して抱いている、あふれるばかりの愛を、あなたがたに知ってもらうためでした。

第一の手紙では、ひどい状態にあるコリントのクリスチャンたちを責め、厳しい言葉をたくさん使った。
それは、コリントの教会をただ糾弾して、悲しませることが目的だったわけではない。
それを書く私自身も悲しかったけれど、そのままの状態でもいて欲しくなかった。
それでもあの手紙を書いたのは、私がどれほどあなたたちを気にかけ、思っているかを、あなたたちに知って欲しかったからだ。

2:5 もしある人が悲しみをもたらしたのなら、その人は私を悲しませたのではありません。むしろ、言い過ぎにならないように言えば、ある程度まで、あなたがたすべてを悲しませたのです。

あなたたちの間にいる、あの罪を犯した人(分裂分派を起こしていた人たちや、自分の父の妻と結婚する不品行を行っていた人たちのこと)が悲しませていたのは、私(パウロ)ではありませんでした。
このように言うことが許されるなら、彼らはあなたたちを悲しませていたはずです。

2:6 その人にとっては、すでに多数の人から受けたあの処罰で十分ですから、
2:7 あなたがたは、むしろその人を赦し、慰めてあげなさい。そうしないと、その人はあまりにも深い悲しみに押しつぶされてしまうかもしれません。

罪を指摘された人たちは、パウロの手紙の後、何らかの処罰が下されたことが分かる。
それは、恐らくイエスさまが言っていたように、群れから離されるということだったのではないだろうか。

マタイ 18:15 また、もしあなたの兄弟があなたに対して罪を犯したなら、行って二人だけのところで指摘しなさい。その人があなたの言うことを聞き入れるなら、あなたは自分の兄弟を得たことになります。
18:16 もし聞き入れないなら、ほかに一人か二人、一緒に連れて行きなさい。二人または三人の証人の証言によって、すべてのことが立証されるようにするためです。
18:17 それでもなお、言うことを聞き入れないなら、教会に伝えなさい。教会の言うことさえも聞き入れないなら、彼を異邦人か取税人のように扱いなさい。

その処罰の内容はともかく、彼が(あるいは彼らが)自分の罪に気付き悔い改めているなら、赦し、慰めてやりなさいとパウロは勧めている。

2:9 私が手紙を書いたのは、あなたがたがすべてのことにおいて従順であるかどうか、試すためでした。
2:10 あなたがたが何かのことで人を赦すなら、私もそうします。私が何かのことで赦したとすれば、あなたがたのために、キリストの御前で赦したのです。

第一の手紙を通して伝えられたことを、コリントの人々が忠実に行ったことに、パウロは喜びを表している。
コリントに節度を離れたクリスチャンたちがいたことは確かだったけれど、コリントの教会自体が歪んでいたわけではないことが確認できたからだ。

私たちも、罪に対してどのように対応するかが問われることがある。
「罪のままのあなたでいいよ」と許すのがクリスチャンの価値観ではない。
しかし、罪を悔い改めた人を赦すことはクリスチャンの価値観であるべきだ。

2:11 それは、私たちがサタンに乗じられないようにするためです。私たちはサタンの策略を知らないわけではありません。

悔い改めた人を感情的に赦さず、人を裁き、断罪することは、サタンの誘惑に乗ることだ。
大切なのは、相手の人が神さまに立ち返ることであって、彼らを罪に定めることではないのだから。