IIコリント 2:12-17 IIコリント4 『いのちに至らせる香り』2023/07/16 けんたろ

IIコリント 2:12-17
2:12 私がキリストの福音を伝えるためにトロアスに行ったとき、主は私のために門を開いておられましたが、
2:13 私は、兄弟テトスに会えなかったので、心に安らぎがありませんでした。それで人々に別れを告げて、マケドニアに向けて出発しました。
2:14 しかし、神に感謝します。神はいつでも、私たちをキリストによる凱旋の行列に加え、私たちを通してキリストを知る知識の香りを、いたるところで放ってくださいます。
2:15 私たちは、救われる人々の中でも、滅びる人々の中でも、神に献げられた芳しいキリストの香りなのです。
2:16 滅びる人々にとっては、死から出て死に至らせる香りであり、救われる人々にとっては、いのちから出ていのちに至らせる香りです。このような務めにふさわしい人は、いったいだれでしょうか。
2:17 私たちは、多くの人たちのように、神のことばに混ぜ物をして売ったりせず、誠実な者として、また神から遣わされた者として、神の御前でキリストにあって語るのです。

コリント人への手紙第二は、第一の手紙の後、パウロがコリントを訪れたときから起こっていた様々な問題を正すための書かれた手紙。

そこにあった一つの問題は、コリントのクリスチャンたちの中にアンチパウロの考えを持つ人たちが入り込んだということ。
パウロは、コリントのクリスチャンたちとの関係の回復をはかり、手紙の中でいくつもの弁明をしている。

前回は、第一の手紙で非難していた罪を犯した人が悔い改めたことを聞いて、彼のことを赦すようにと話していた。
今回はその続き。

① 計画通りに行かないことはある

2:12 私がキリストの福音を伝えるためにトロアスに行ったとき、主は私のために門を開いておられましたが、
2:13 私は、兄弟テトスに会えなかったので、心に安らぎがありませんでした。それで人々に別れを告げて、マケドニアに向けて出発しました。

エペソからコリントに向かう途中、パウロはトロアスでテトスたちと会う計画があった。
しかし、何らかの理由があって、テトスはいつまで経ってもそこに現れなかった。
テトスがどうなったのか不安になったパウロは、そのまま次の町であるマケドニアに出発した。

予定通りにいかないことが誰にでもある。
第二コリントへの手紙のなかでも、すべては私たちの計画によるのではなく、神の計画によるのだとパウロは話している。
予定通りに行かない時には、パウロだって不安になるけれど、それでも神さまに従うしかないのだということ。

② キリストの香り

2:14 しかし、神に感謝します。神はいつでも、私たちをキリストによる凱旋の行列に加え、私たちを通してキリストを知る知識の香りを、いたるところで放ってくださいます。

ここでパウロがイメージしているのは、ローマ帝国の凱旋のセレモニー。
そこでは香が炊かれ、その香を振り回しながら凱旋のパレードをした。
今でも正教では礼拝の中で、香を炊きながら祭司が入場する。

しかしここで言いたいのは、ローマ帝国が武力によって他国を滅ぼし、凱旋するのと比べて、キリストの勝利は知識の香りを放つものである。

2:15 私たちは、救われる人々の中でも、滅びる人々の中でも、神に献げられた芳しいキリストの香りなのです。

私たちクリスチャンは、このようなキリストの香りを放つものであるべきだ。
それは、暴力ではなく知性を伴うものであると同時に、愛にあふれた香りであるはずだと思う。
でも、それだけでは終わらない。
ローマ帝国の戦いに、勝者と敗者があったように、キリストの勝利の裏には敗者がいる。

2:16 滅びる人々にとっては、死から出て死に至らせる香りであり、救われる人々にとっては、いのちから出ていのちに至らせる香りです。このような務めにふさわしい人は、いったいだれでしょうか。

キリストの凱旋は、ある人たちにとっては救いであり、キリストの勝利は希望をもたらすものである。
一方で、救いを受け取らない人たちにとっては、さらに大きな隔てとなり、死と滅びへと繋がっていく香り。
私たちは、勝利者の側としてこの凱旋に連なり、キリストの香りを放つものとして凱旋したいものだ。

③ 神の言葉に混ぜ物をして売る
2章最後のこの言葉は、少し特別な響きを持って受け取られる言葉のように思う。

2:17 私たちは、多くの人たちのように、神のことばに混ぜ物をして売ったりせず、誠実な者として、また神から遣わされた者として、神の御前でキリストにあって語るのです。

「神の言葉に混ぜ物をして売る」とは、どのような状況なのだろう?
具体的にこれが何を意味しているのかは分からないが、当時から人々は、多くの人たちに受け入れられるように、福音に混ぜ物をして伝える人たちがいた。

それは、律法的なことだったり、異教の宗教的なことだったり。
現代でも同じことが起こっているように思う。
私たちは、人から受け入れられようとして福音に混ぜ物をしていないだろうか?
そこには、ヒューマニズム的な価値観や、クリスチャンの業界に請けいれられやすい言葉だけが述べられているということはないだろうか?

後半の、「誠実な者として、また神から遣わされた者として、神の御前でキリストにあって語るのです」ということばにも深い意味がある。
誠実であるというのは、ウソや偽りないということだ。
そこで語られるのは、表面的に取り繕った建前ではない。
リアルで、等身大で、泥臭く、生々しいこと。

コリント人への第二の手紙は、まさにパウロの赤裸々な失敗談とリカバリーしていく話だと思う。
だからこそ、彼の語る福音は多くの人たちの心を捉え、福音の大切さに気付き立ち返る人たちが多かったのだろう。

私たちも、そんな誠実なクリスチャンとして、主とともに歩んでいきたいものだ。