IIコリント3:1-11 IIコリント5『文字は殺し御霊は生かす』2023/07/23 けんたろ

IIコリント 3:1-11
3:1 私たちは、またもや自分を推薦しようとしているのでしょうか。それとも、ある人々のように、あなたがたに宛てた推薦状とか、あなたがたからの推薦状とかが、私たちに必要なのでしょうか。
3:2 私たちの推薦状はあなたがたです。それは私たちの心に書き記されていて、すべての人に知られ、また読まれています。
3:3 あなたがたが、私たちの奉仕の結果としてのキリストの手紙であることは、明らかです。それは、墨によってではなく生ける神の御霊によって、石の板にではなく人の心の板に書き記されたものです。
3:4 私たちはキリストによって、神の御前でこのような確信を抱いています。
3:5 何かを、自分が成したことだと考える資格は、私たち自身にはありません。私たちの資格は神から与えられるものです。
3:6 神は私たちに、新しい契約に仕える者となる資格を下さいました。文字に仕える者ではなく、御霊に仕える者となる資格です。文字は殺し、御霊は生かすからです。
3:7 石の上に刻まれた文字による、死に仕える務めさえ栄光を帯びたものであり、イスラエルの子らはモーセの顔にあった消え去る栄光のために、モーセの顔を見つめることができないほどでした。そうであれば、
3:8 御霊に仕える務めは、もっと栄光を帯びたものとならないでしょうか。
3:9 罪に定める務めに栄光があるのなら、義とする務めは、なおいっそう栄光に満ちあふれます。
3:10 実にこの点において、かつては栄光を受けたものが、それよりさらにすぐれた栄光のゆえに、栄光のないものになっているのです。
3:11 消え去るべきものが栄光の中にあったのなら、永続するものは、なおのこと栄光に包まれているはずです。

コリント人への手紙第二は、第一の手紙の後、パウロがコリントを訪れたときから起こっていた様々な問題を正すための書かれた手紙。

そこにあった一つの問題は、コリントのクリスチャンたちの中にアンチパウロの考えを持つ人たちが入り込んだということ。
パウロは、コリントのクリスチャンたちとの関係の回復をはかり、手紙の中でいくつもの弁明をしている。

前回は、パウロが宣教の働きの中で学んだ一つのこと、つまりクリスチャンは凱旋するキリストの周りに炊かれた香の香りのようなものだということを分かち合った。
私たちは生き、人々の中にある中で、キリストの香りを放っているのだということ。

① あなたたちが推薦状
しかし、そんなパウロを受け入れようとしなかったコリントの人々に、彼は「推薦状を必要としているのか?」と怒りを込めて問いかけている。

3:1 私たちは、またもや自分を推薦しようとしているのでしょうか。それとも、ある人々のように、あなたがたに宛てた推薦状とか、あなたがたからの推薦状とかが、私たちに必要なのでしょうか。

別の教会に誰かが派遣されるとき、推薦状を携えることがある。
初めて会う人であればどんな人か判断することはできないが、知っている人や有名で権威を持った人が書いた推薦状があれば、その人を信頼することができるというわけ。

パウロのことを知らないかのように扱うコリントの人たちに、パウロは皮肉を込めてこのように言った。
しかし、その後の言葉はコリントの人々の心を揺り動かしただろう。

3:2 私たちの推薦状はあなたがたです。それは私たちの心に書き記されていて、すべての人に知られ、また読まれています。

「コリントに私を知らない人もいるだろう。むしろ悪い噂を聞いている人もいるだろう。しかし、私にはどんな推薦状よりもすぐれた推薦状がある。それは、あなたたちという存在だ」というのだ。

コリントのクリスチャンの集まりは、パウロが福音を伝えたことから始まり、広がった。
パウロが福音を宣べ伝えるのでなければ、ここに教会はなかったのだ。
そして、最初に福音をのべ伝えた人たちの存在そのものが、パウロという人物を保証する推薦状になっているとパウロは言う。
これはどういう意味だろう?
続いてパウロはこのように書いている。

3:3 あなたがたが、私たちの奉仕の結果としてのキリストの手紙であることは、明らかです。それは、墨によってではなく生ける神の御霊によって、石の板にではなく人の心の板に書き記されたものです。

この推薦状は、墨によるものではなく、神の御霊によって人の心に書き記されたものだとパウロは言う。
権威的な誰かのサインがある推薦状は、人の間では力を発揮するかも知れない。
でも、御霊によって記された、人という推薦状は、さらに大きな力をもっている。

3:5 何かを、自分が成したことだと考える資格は、私たち自身にはありません。私たちの資格は神から与えられるものです。

現代の教会では、教会籍を移すという言い方をし、推薦状を必要とする。
また、どこそこの神学校を出たということが正当性の証とされる。
それは先人の知恵ではあるけれど、そこに聖書の原則によるものではない。
大切なのは神からの資格であり、その人が御霊によって生きているかどうかということ。
人による推薦は、それを保証するものではないことを忘れてはならない。

② 文字は殺し御霊は生かす
ここで一つ、アンチパウロ派の人たちがどういう人たちだったのか、明確にしておきたい。
アンチパウロ派の人々はユダヤ教徒であり、ユダヤ教の律法に回帰しようとしている人々だった。

ユダヤ教的価値観は、石の板に記されたルールブックのようなもの。
律法という言葉を守るものであり、規律・戒律・儀式による宗教の世界。
自分の力で、表面的に行うものとなる。
しかし、それを完全に行うことは不可能。
律法には、それを破る者を裁きに定める恐いものでもある。

一方で福音は、聖霊が内に宿り、私たちを内側から変えていく。
そこには愛があり、赦しがある。
律法と福音とは表裏一体で、律法で記された正しさを完成するものが御霊であり福音。
それを、パウロはこのように表現している。

3:6 神は私たちに、新しい契約に仕える者となる資格を下さいました。文字に仕える者ではなく、御霊に仕える者となる資格です。文字は殺し、御霊は生かすからです。

信仰が無くても分かりやすく、明確なため、私たちは文字に仕える者になりやすい。
規律や戒律、儀式による宗教的な信仰は、キリスト教の中に今も浸透している。
しかし、イエスさまが私たちに教え、使徒たちによって広げられた御霊による信仰は、それをはまったく違うものであるはずだ。

文字は殺し、御霊は生かす。
私たちは何に仕えているだろうか?
もし、御霊ではなく文字に仕えていたと感じたなら、今すぐにでも方向転換して欲しい。
まずは聖霊に耳を傾けるところから始めよう。
心を開くなら、きっと神さまの声が聞こえるはずだ。
そして、御霊は私たちを自由にし、命を与えてくださる。
そこには、愛と感謝と喜びが満ちている。