IIコリント4:1-9 IIコリント7『土の器』2023/08/20 けんたろ
IIコリント 4:1-9
4:1 こういうわけで、私たちは、あわれみを受けてこの務めについているので、落胆することがありません。
4:2 かえって、恥となるような隠し事を捨て、ずる賢い歩みをせず、神のことばを曲げず、真理を明らかにすることで、神の御前で自分自身をすべての人の良心に推薦しています。
4:3 それでもなお私たちの福音に覆いが掛かっているとしたら、それは、滅び行く人々に対して覆いが掛かっているということです。
4:4 彼らの場合は、この世の神が、信じない者たちの思いを暗くし、神のかたちであるキリストの栄光に関わる福音の光を、輝かせないようにしているのです。
4:5 私たちは自分自身を宣べ伝えているのではなく、主なるイエス・キリストを宣べ伝えています。私たち自身は、イエスのためにあなたがたに仕えるしもべなのです。
4:6 「闇の中から光が輝き出よ」と言われた神が、キリストの御顔にある神の栄光を知る知識を輝かせるために、私たちの心を照らしてくださったのです。
4:7 私たちは、この宝を土の器の中に入れています。それは、この測り知れない力が神のものであって、私たちから出たものではないことが明らかになるためです。
4:8 私たちは四方八方から苦しめられますが、窮することはありません。途方に暮れますが、行き詰まることはありません。
4:9 迫害されますが、見捨てられることはありません。倒されますが、滅びません。
コリント人への手紙第二は、第一の手紙の後、パウロがコリントを訪れたときから起こっていた様々な問題を正すための書かれた手紙。
そこにあった一つの問題は、コリントのクリスチャンたちの中にアンチパウロの考えを持つ人たちが入り込んだということ。
パウロは、コリントのクリスチャンたちとの関係の回復をはかり、手紙の中でいくつもの弁明をしている。
前回は、私たちクリスチャンは律法を一生懸命護ることによってではなく、聖霊を通して神さまの光を受けて輝いて生きるのだということと、それによって、栄光から栄光へとキリストに似た者とされていくことを学んだ。
① 自分ではなく、キリストを宣べ伝える
その中で必要なのは、私たちがただキリストに従い、まっすぐに神さまの言葉を伝えることだ。
4:2 かえって、恥となるような隠し事を捨て、ずる賢い歩みをせず、神のことばを曲げず、真理を明らかにすることで、神の御前で自分自身をすべての人の良心に推薦しています。
4:5 私たちは自分自身を宣べ伝えているのではなく、主なるイエス・キリストを宣べ伝えています。私たち自身は、イエスのためにあなたがたに仕えるしもべなのです。
私たちの務めは、ただまっすぐキリストを宣べ伝えることであって、自分自身を宣べ伝えることではない。
私たちはそのことを間違えてはならない。
そうして、ありのままのキリストを伝えたうえで、相手がそれを受け入れようとしないなら、問題は福音を聞いた相手の側にあるのかもしれない。
4:3 それでもなお私たちの福音に覆いが掛かっているとしたら、それは、滅び行く人々に対して覆いが掛かっているということです。
そのように、まっすぐ福音を伝えたなら、後の責任は神さまと本人にある。
もしかすると、それは相手の側に覆いがかかっているのであって、私たちの責任ではない。
相手の側に覆いがかかっているのかもしないからだ。
② 土の器
前回の聖書箇所に記されていたような、聖霊による光はどこから来るのだろうか?
イエスさまが、「あなたがたは世の光である」と言った光は、どのようにして私たちの内に宿るのだろう?
4:6 「闇の中から光が輝き出よ」と言われた神が、キリストの御顔にある神の栄光を知る知識を輝かせるために、私たちの心を照らしてくださったのです。
これまで見てきたように、その光は私たちの内側から出てくる光ではない。
創世のとき、光を生み出した神さまが、キリストの栄光によって、私たちを照らし出してくださる。
その光を受ける私たちを、パウロはこのように描写している。
4:7 私たちは、この宝を土の器の中に入れています。それは、この測り知れない力が神のものであって、私たちから出たものではないことが明らかになるためです。
神さまが、まばゆい神の光という宝を入れるのに、なぜ土の器を選ぶのか?
それは、素晴らしいのは神さまであって私たちではないことが表されるためだという。
これが、第二コリントのテーマであり、繰り返し語られている。
これは第一に、パウロ自身がすごい、素晴らしい人間なのではなく、欠けだらけ、問題だらけだということを表している。
実際にパウロは、怒りっぽく、理屈っぽく、頑固で、話すのは上手ではなかった。
私たちも、さまざまな問題を抱えている。
わたしたちが、どれほどたくさんの弱さを持っているかは、改めて考えるまでもないだろう。
でも、そんな私たちを、神さまは用いられるのだ。
気をつけなければならないのは、私たち(特に日本人)は、人によってすべてを判断してしまいがち。
「この人が言っていることは信用できない」「この人はいい人だから言っていることはすべて正しい」と考えてしまいがち。
一つの失敗ですべてが否定されてしまうことはめずらしくない。
その価値観があるから、私たちは人格的に完璧にならない限り、神さまに仕えることはできないと思い込んでしまう。
でも、聖書が教えているのはそうではない。
問題をたくさん持っている私たちが、神さまによって用いられる。
不完全な人のうちに働いてくださる、神さまの働きに目を留めてみよう。
そして、不完全な自分の中で働いてくださる、神さまの働きに目を留めてみよう。
別に、土の器でしかない自分自身を強調する必要なんてないし、変わることができるならいくらでも変わればいいと思うけれど、肝心なのはスペシャルなのは私たち自身ではなく、私たちの内に働いてくださる神さまだという認識。
それがある限り、私たちは傲慢になることはないし、自己肯定感を上げるために必死になる必要もなくなるだろう。
なにしろ、不完全な私たちの内に、完璧な神さまが働いてくださるのだから。